2023.02.24

徳川家康は「寛容」すぎて天下を取った…大河『どうする家康』の見方が劇的に変わる家康流「組織術」

多くの優秀な部下をまとめ上げた徳川家康の組織マネジメントは、今も高く評価されている。なぜ家康は最強の家臣団を組織し、天下を取れたのか。前編「大河ドラマ『どうする家康』で注目すべきは「家臣」…天下統一を支えた「チーム家康」の凄すぎる特徴」に続き、鉄の結束を誇った「チーム家康」の秘密に迫る。

四天王の子孫も感謝

なぜこうも部下たちに寛容でいられたのか。それには家康の生い立ちが関係している。

家康は8歳から19歳までの間、隣国・駿河の大守である今川義元のもとへ人質として差し出されていた。

「この時期は家康にとって苦難の時期だったと思っている人も多いと思います。しかし、これは家康が天下を取るためにはなくてはならない期間でした。実は、この時に義元の軍師であった太原雪斎から『帝王学』を叩きこまれていたのです。単なる兵法などだけでなく、上に立つ者の心構えを学べたことは大きかった。

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一足早く天下人となった織田信長や豊臣秀吉は、若いうちに帝王学を学ぶことはありませんでした」(歴史学者で『どうする家康』の監修も務める小和田哲男氏)

若い時の学問が家康に、組織マネジメントについての知恵というアドバンテージを与えたのだ。

それに、同盟を結んでいたとはいえ、他国での人質生活では、否が応でも気を張り続けなければいけなかった。周りの人物の本質を見抜けなければ、明日生き残れるかわからない—。必死で周りの人を見る癖をつけていたからこそ、人並外れた人間洞察力が養われたといえる。

家臣同士の仲が怪しくなってくると、すかさずフォローに入るのも家康の優れたリーダーシップだ。小和田氏が続ける。

「井伊直政は家康の家臣の中では、抜擢によるスピード出世を遂げています。これに対して、昔からの家臣である榊原康政は面白く感じていませんでした。

しかし、家康はこれを察知して二人の間に入り、仲直りを成功させています。家康自身、調整役を上手く担っていました」

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