部下を押さえつけない
一方で、今川家や武田家が滅びた時、それまで敵だった者を積極的にリクルートして、その長所を取り入れた。一度は決別した者でも再び迎え入れたのも、人材の多様性を担保するのに役立った。前出の小和田氏が続ける。
「代々今川家の家臣だった井伊直政はその典型例でしょう。井伊は徳川四天王の一人に数えられるまでになりました。『赤備え』と怖れられた井伊軍団は、武田遺臣の軍制を取り入れたものです。
また、三河で一向一揆が勃発した際に一向宗徒だった本多正信は一揆側に加担しています。それでも家康は、一揆の鎮圧後には正信を再び配下に招き入れる懐の広さを見せました」

家康の同盟者だった織田信長が家臣を恐怖による支配で統べているのとは対照的だ。家康は、決して自分を大きく見せようとしなかった。
たとえば、これからドラマで登場する「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄の軍に粉砕され命からがら逃げ帰りながら、家康は馬上で恐怖のあまり脱糞したという話が残っている。
このような身もフタもないエピソードが後世まで残っているのは、家臣が何でも言える空気を醸しだしていたためだろう。
後編「徳川家康は「寛容」すぎて天下を取った…大河『どうする家康』の見方が劇的に変わる家康流「組織術」」では、現代の組織にも通じるチーム徳川の強みを紹介する。
「週刊現代」2023年2月25日号より