また、「大塔の宮」は、後醍醐天皇の息子で征夷大将軍あった大塔宮護良(だいとうのみやもりよし)親王のことだと考えられます。
後醍醐天皇と言えば、鎌倉時代の末期にあって親政(天皇みずからが政治をつかさどること)を目指した人物として知られ、護良親王もその脈絡でいわゆる皇国史観的なものと相性がよいとされますが、明治天皇はそうした過去の天皇・皇族に自身を重ねたりしていたのでしょうか。
「お湯を」と仰せ出されますと…
夕食をとって蓄音機で琵琶歌を聞き……その後は入浴です。『女官』には、天皇や皇后の入浴の様子についても記されています。
〈御湯殿はどちらも八帖の畳敷に中央の二帖だけが一段高いお畳(じょう)になっていて、この上でお召物をおぬぎになるのです。お世話申し上げる女官は下の畳の上におります。
(中略)
浴槽はその下にまた八帖くらいの板間があって、そこに据え付けてあります。御湯は別の場所で程よくわかしたものを、八瀬童子(やせのどうじ・仕人)がお手桶で運びまして、たくさん重ねて積んでございます。「お湯を」と仰せ出されますと、それを浴槽に入れるだけは命婦がやります〉
……こんなふうにして、明治天皇やその妻・昭憲皇太后は入浴をしていたようです。