「ちょっとした」で軽くいなされるがゆえに私たちを深く傷つける、ルッキズムやジェンダーバイアスに根差した言葉。それは、性別にも年齢にも関係なく有毒なものなのではないか? 見えない暴力やジェンダー的なすれ違いに晒される私たちを描いた『青木きららのちょっとした冒険』が話題の芥川賞作家・藤野可織さんと、「ルッキズムをぶっ潰す」と力強くうたった『ブスなんて言わないで』の著者、漫画家・とあるアラ子さんが、作品を通してじっくりと語り合うスペシャルトーク。

前編「低賃金も自分の顔を愛せないのも仕方ないの? ルッキズムが強いる地獄をぶっ潰す!」では、なぜ二人がルッキズムをテーマに作品を生み出そうと思ったのか、経済状況がルッキズムに影響する現状まで語っていただきました。
後編では、マジョリティが無自覚に語るルッキズムの影響や、恋愛とルッキズムの関係に話が深まっていき……日常に潜む何気ない「ルッキズム」的なバイアスが傷つけるものを、男性側の心理にも踏み込んで考えます。
(「群像」2023年3月号より転載)
「ブス」を受け入れるイケメンは純粋で天然!?
藤野 配信ドラマや映画は観ますか?
とある 私はネットフリックスの『セックス・エデュケーション』にハマりました。性教育という重くなりそうなテーマを、エンターテイメントとしてすごく面白く作っているんです。テーマ性が強い群像劇を描いてみたいと思うきっかけになった作品です。
顔についてのコンプレックスは人それぞれだけど、それだけで悩んでいるわけではないので、今回の作品を描き始めたときには、どうやったらルックスのテーマでずっと描き続けられるか不安でもありました。

ブスと美人がぶつかった瞬間に人格が入れ替わるという手法に対してずっと不満があったんです。というのも、あるとき突然、別の人の体になってブスになった辛さと、生まれ持った顔がブスであるという辛さは違うんじゃないかと思って。もし、ある日突然ブスになったとしたらそれは自分のせいじゃないし、受け入れられる気がするんですね。だけど生まれながらの場合、親と似ていて愛着がある顔なのに、それがブスだと世間に断定される辛さは、入れ替わりでは再現できない。ただ、いざ描いてみると、そのくらいインパクトのある設定でないと、関心がルックス以外の部分にそれちゃうんです。そうか、だから入れ替わりの設定になっていたのかと気づいて、今まで不満に思ってすみませんと(笑)。
同じように、ブスな女の子がイケメンに恋する話にも、すごく不満がありました。そういう話って、イケメンがすごく純粋で、大体天然なんです。ブスはそういう男にしか受け入れられないのか、物事をちゃんと考えている、現実的な人とはつき合えないのか、と。でも、これまた自分が描いてみると大変なんです。この二人は相思相愛になるだろうか。この男の子が美醜にこだわらないピュアなタイプだったらもっといろんなことが描けるのにと思ったりして。

こうして自分が描いてみると、今まで先輩作家が描いてきた美醜に関する作品は、そうじゃないと描けなかったんだということに初めて気がつきました。描きたいテーマがあったときに、ブスをそんなにブスに描けなかったというのも今だったら理解できる。制約のある中で、いろんな少女漫画家さんがブスの主人公の漫画を生み出してきたことに対して、大きなリスペクトの気持ちが湧きました。
ルッキズムという言葉がある今の時代だからこそ、私は作品が描けているわけです。多分十年前だったら形にならなかった。ブスが主人公だから店頭であまり手にとってもらえない、そんな恐れすらある。日常からの現実逃避を「美しさ」に求めている読者に向けて、ブスが主人公というリアルを突き付けるハードルがなかなか高いんです。
藤野 小説は漫画と違って、見た目をそんなに細かく書かなくてもいいんですよね。たとえば、「小鳩のような小さな顔、吊り上がった大きな目」でそれが「魅力的だ」と書けば、その人物は美人なんだろうなあということになるし、それが「調和を破壊していてどうにもこうにもまとまりというものがなく、人に恐怖すら感じさせる」と書くと、美人ではないんだなあととりあえず納得してもらえる……と思います。だけど漫画の場合は絵ですから、もっとむきだしというか、表現に逃げ場が与えられない難しさがありますよね。
とある 逆に小説の場合、こういうのがブスだよと伝えたい場合は、言語化しないといけないんですよね。絵だと、別にここには意味がありませんよみたいな振りをして、ごまかせてしまってるかもしれないです。