「江戸時代から明治時代」への「激変」のなか、「福沢諭吉」が「鋭く冷静な洞察」をすることができたワケ

日本の近代化を支えた思想家であり、慶応義塾の創設者としても知られる福沢諭吉。

江戸から明治へと移る激動の時代において、福沢はなぜ、いち早く西洋の思想を学び、先進的な活動を展開することができたのか。

その背景には、蘭学など、これまで見落とされがちだった江戸徳川時代の日本における豊かな学問的土壌があったという。

グローバル社会の勢力図が急速に変化するいま、全ての基礎となる「学問」の意義を福沢に学ぶ。

※本記事は、大久保健晴氏の新刊『今を生きる思想 福沢諭吉 最後の蘭学者』を抜粋・編集したものです。

福沢諭吉と蘭学

これまで福沢諭吉について取り上げた書籍は、入門書から専門書に至るまで、おびただしい数に及び、すでに多くの優れた先行研究が存在する。扱われるテーマも、福沢諭吉の政治思想や経済論、法思想にはじまり、外交論、西洋政治理論との知的格闘、家族論や女性論、さらにはアジア認識、中国・朝鮮論など、じつに多彩である。

しかしそうしたなかで、これまでその重要性が認識されながらも、十分に論じられてきていない主題がある。「福沢諭吉と蘭学」である。

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よく知られるように、福沢は黒船来航後の安政年間に、大坂で蘭医・緒方洪庵(おがたこうあん)が主宰する蘭学塾・適塾(てきじゅく)に学び、塾長までつとめた。その後、安政5(1858)年、江戸に出てきた福沢が築地鉄砲洲(てっぽうず)の奥平家中屋敷内の長屋に開いた塾も、蘭学塾であった。今日の慶應義塾は、この蘭学塾を起源とする。ところが、それにもかかわらず、これまで福沢諭吉と蘭学の関係については、必ずしも正面から検討されていない。

それはなぜか。一つの大きな原因は、福沢自身の晩年の作品『福翁自伝』にある。