ジョディ・フォスター主演の映画『告発の行方』(1988年)は、酒に酔い、マリファナも吸っていた女性が集団レイプに遭い、告発をした映画。彼女はキャミソールにミニスカート姿だった。裁判で男性たちは「和姦」だと主張し、彼女が自傷行為に陥るほど傷つく結果となる。この作品はアカデミー賞を始め多くの賞を受賞し、性暴力の被害者の「見え方」に対して周囲のジャッジが変わりうることへの問題意識を呼び覚ました作品となった。しかし、それから40年近く経った今も、レイプ事件で「誘うような服装をしていた女性が悪い」と言われることは少なくないという。

性暴力の被害に遭った人に寄り添うには、どうしたらいいのだろうか。
性被害に遭ったことを実名で告白し、問題点を伝え続けている八幡真弓さんが実体験から被害者の方を支える上で大切なことを伝える記事の前編「性被害に遭った私がカミングアウトで「えっ、ウソ」と言われ凍り付いた理由」では、被害体験を告白した時に「えっ、ウソ」と 言われたことで辛いフラッシュバックが起きてしまった話をお伝えした。それを思わず口にした方は、性暴力の被害者を支えたいという思いもあった。それでも「思わず出る言葉」がナイフのようになってしまうこともありうるのだ。後編では、「同情に足るか否か」の品定めが大きく影響してきた現実をお伝えする。

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「同情に足る被害者」への強固な理想

長い間、特に日本の社会には「性被害者とはこのようなものである」という勝手なイメージがあると感じる。さらに「同情に足る被害者」とはこういうものであるという強固な理想が存在していることが、これまでの実例からも体感してきた。

ミニスカートや胸のはだけたような露出の多いファッションはせず、素行が良く、若く、線が細くか弱い。未婚か、または処女であったかどうか。また、被害時に徹底して拒否し抵抗したのかも、「同情に足る被害者」であるのには社会にとっては重要な条件なのだろう。 

それらは決して過去の話ではなく、今の社会でもまだまだ幅をきかせている。
性暴力被害者として存在するということは、常に、「社会が納得する落ち度のない完璧な被害者」といった自分の『被害者性』を品定めされているようだ。

レイプをされた女性が「なぜ2階から飛び降りて逃げなかったんですか」と聞かれた事例もある Photo by iStock

そもそもこの「社会が納得する落ち度のない完璧な被害者像」というものはファンタジーであり偏見や差別意識から出来上がっているものだ。女性支援を仕事にしてきていた私は、そのことを理解できてはいた。だが、私がそれをどう理解しようとどう心を強く持とうと、「社会の品定めに失格した被害者」が責められたり切り捨てようとされたりする現実は恐ろしく、その恐怖は私の胸の奥のほうに常に巣食っていた。

悪意のない言葉から生まれた二次被害であったとしても、その恐怖が少しでも刺激されるような出来事があればここぞとばかり強い痛みを引き起こした。