日本の近代化を支えた思想家であり、慶応義塾の創設者としても知られる福沢諭吉。
開国が進む幕末維新の時代状況を背景として、3度にわたって欧米諸国を訪れました。
そこで福沢が見聞きしたものは、彼の思想にどのような影響を与えたのでしょうか。
※本記事は、大久保健晴氏の新刊『今を生きる思想 福沢諭吉 最後の蘭学者』を抜粋・編集したものです。
米欧見聞の旅
穏やかに揺蕩(たゆた)う運河の脇に19基の風車が並び、壮観な景色が訪れる人々を圧倒するオランダ南西部の地、キンデルダイク。風光明媚なこの場所で建造された一隻の軍艦が、1857年、日本に渡った。その船は中国の古典『易経』を典拠に、咸臨丸と名づけられた。

福沢諭吉が咸臨丸に乗ってアメリカ・サンフランシスコを訪問したのは、安政7(1860)年のことである。諭吉は当時、27歳。蘭医・桂川国興の紹介状により、日米修好通商条約締結に伴う批准書交換を目的とする使節団の一員として、太平洋を渡った。咸臨丸には、軍艦奉行の木村喜毅(きむらよしたけ)(芥舟(かいしゅう))をはじめ、勝海舟(かつかいしゅう)や小野友五郎(おのともごろう)など、長崎海軍伝習所でオランダ海軍の教師陣から蘭学と海軍技術を学んだ者たちが乗り込んだ。
同年5月に帰国すると、福沢は11月より徳川政権の外国奉行支配翻訳方に雇われた。続いて翌文久元(1861)年、今度は遣欧使節団の一員に選出され、ヨーロッパ諸国を訪問した。同使節団には、同じく適塾で学んだ寺島宗則(松木弘安)や箕作秋坪もいた。
文久2(1862)年元旦に長崎を出帆した一行は、カイロでピラミッドを見物した後、パリへと移動した。続いてイギリスでは、ロンドン万国博覧会をはじめ、病院や養唖院、電信局やテムズトンネル、グリニッジ天文台、海軍学校、アームストロング砲の製造工場、武器庫、大英博物館、キングス・コレッジ・スクールなど精力的に見学した。