西太后に幽閉された悲運の賢帝・光緒帝が、心を許した女性通訳官にかけた「最後の言葉」とは?
中国・清朝末期に半世紀にわたって権力を握っていた女性、西太后。その間、皇帝はいったいどうしていたのか? もちろん、正式な皇帝が在位しており、ともに紫禁城内に暮らしていた。西太后の通訳官・徳齢の『西太后に侍して 紫禁城の二年間』(太田七郎・田中克己訳、講談社学術文庫)には、清朝第11代皇帝で西太后の甥でもある光緒帝の素顔が、生々しく描かれている。
西太后に頭が上がらない光緒帝
清朝の外交官を父に持つ徳齢と容齢の姉妹が、母に伴われて初めて西太后に拝謁したのは、1903年2月のことだった。太后と握手し、言葉を交わしている時、徳齢は一人の男が少し離れて立っているのに気が付く。なんと、それが皇帝だった。
〈太后陛下は「光緒皇帝に紹介しましょう。ですが皇帝を万歳爺(ワンスェイイェ)、私を老祖宗(ラオツツォン)と呼んでくださいよ」とおっしゃいました。皇帝陛下は羞しそうになさりながら、握手を賜りました。(中略)非常に痩せていらっしゃいますが、いと御英邁なお顔立で、御鼻は隆く、御額は秀で、大きなきらきら光る黒い御眼、ひき締った御口元、非常に白い揃った御歯並、総じて申しあげれば堂々たる御風采でいらっしゃいました。〉(35頁)

徳齢らがそこにいる間、光緒帝は絶えず微笑を浮べるようにしていたものの、ひどく「憂わしげな様子」に見えた。それもそのはず、若き皇帝は康有為らと断行した政治改革を、1898年の「戊戌の政変」で西太后に阻止され、実権を奪われてすでに5年、事実上幽閉の身であった。
宮中では、大臣たちを謁見する「召見の間」では、中央にあるのは太后の大きな宝座で、その左の小さな宝座が光緒帝のものだった。政務を離れても、頤和園の皇帝と皇后の御殿の間にはもともと門があったが、太后が塞いで、太后御殿を通らなければ往き来できなくなっていた。皇帝皇后の行動は、四六時中、西太后に監視されていたのである。