2023.03.13

西太后のお気に入り、徳齢姉妹の数奇すぎる人生! 義和団で邸宅焼失、文革で大怪我、交通事故死。

清末の権力者・西太后の素顔を描いた『西太后に侍して 紫禁城の二年間』(太田七郎・田中克己訳、講談社学術文庫)の著者、徳齢とは、いったい何者なのか? その観察力と、リアルな描写には驚くばかりだが、明治大学教授の加藤徹氏は本書の解説で、彼女は自ら「プリンセス徳齢」と名乗るなど「話を盛っている部分」が多いと指摘している。そして、この矛盾も飲み込む「したたかさ」に、西太后とも共通する「中国人の本質」を感じるという。まずは、宮中入りした経緯から見ていこう。

 

義和団事件で焼失した大邸宅

1903年1月、徳齢の一家は、外交官の父・裕庚(ユーケン)が公使として赴任したパリから4年ぶりに帰国、上海に着く。一行は書記官、武官やその家族を含め総勢55人にもなった。父・裕庚は漢軍正白旗の武人で、漢民族だが世襲の支配階級、母はルイーザ・ピアソンといい、西洋人と中国女性の間に生まれたといわれる。子供は2人の兄と徳齢、容齢の姉妹。

徳齢が10歳の時、裕庚は駐日公使に赴任し、その後、駐仏公使として一家を伴ってパリへ渡った。恵まれた少女時代に見えるが、パリに発つ直前に北京に建てた大邸宅は、帰国した時には焼失していた。裕庚を外国の味方の売国奴とみた義和団の仕業だった。

〈さる公爵の御殿でしたが、うまく改造して建て増しますと、古い邸の精巧な硬木の彫刻はみんなそのままの綺麗な洋風の家に変りました。(中略)この邸は、北京のどの支那風の家もそうですが、大変ゆったりした建て方で、約10エーカー(約4ヘクタール)にわたる庭がついていました。私たちは出来あがるとすぐ移って4日しかたたないうちにパリに出発したのでした。建てるのにも装飾するのにもあれほど沢山の時間とお金とをかけた後なので、この壮麗な屋敷が焼失したことは、私ども一家にとっていつまでも大きな悲しみの種となりました。〉(20~21頁)

洋装の徳齢

パリから帰国すると母親と姉妹は西太后から頤和園に呼び出され、広間で拝謁する。太后は母に言った。

〈「あなたの娘さんたちのお躾は大したものですね。何年も外国にいたということなのに、私と同じように支那語が話せるし、それにいったいどうやって、こんなに立派なお行儀を覚えたのですか」とおっしゃいます。「これらの父がいつも非常に厳格でございましたので」と母はお答え申しあげました。〉(33-34頁)

  • 【新刊案内・学術文庫】人間の条件
  • 【新刊案内・学術文庫】齟齬の誘惑
  • 【新刊案内・メチエ】日本人の愛したお菓子たち
  • 【新刊案内・学術文庫】4月の予定
  • 【新刊案内・メチエ】
  • 【新刊案内・メチエ】精読アントレ『人間の条件』
  • 【新刊案内・学術文庫】日本の西洋史学
  • 【新刊案内・学術文庫】日本幻獣図説
  • 【新刊案内・学術文庫】天明の浅間山大噴火
  • 【新刊案内・メチエ】逆襲する宗教