またある日、宦官たちはみな自分の仕事をするのにいっそう気を付けているようだと徳齢は気が付いた。太后の機嫌が悪いのである。しかし、そんな日でも、太后は徳齢には優しかった。
〈太后陛下がひとたびお怒りになると、はてしがないということを聞かされていましたが、その反対に、陛下は私には非常にお優しく、まるでなんのいざこざもなかったようにお話し下さるのでした。陛下はお仕えするのにむずかしい方ではない、ただ陛下の御気分をよく見てとる必要があるだけなのです。〉(189頁)
〈私は陛下はなんと魅力をそなえていらっしゃることだろうと思って、はやくも陛下がお怒りになっていたことを忘れてしまいました。陛下は私の考えていることを御推量になったようで「私は臣民に蛇蝎(だかつ)よりひどく憎ませることもできれば、慕わせることもできるのです。私にはその力があるのです」と仰しゃいました。〉(190頁)。

太后が逃がした鳥を宦官が捕える
日頃から宦官たちに厳しくしていたためか、1900年の義和団事件で北京を脱出する時には3000人もいた宦官が、あっという間にほとんど全員、宮廷から逃亡したという。また、徳齢のいた1904年に日露戦争が近づいた時にも、150人の宦官が逃亡した。
西太后の誕生祝では、太后は自分の金で買い上げた一万羽の鳥を籠に入れて女官や宦官に持たせ、頤和園の丘からみずから順々に開けて鳥を放つ儀式を行った。そして、この鳥たちが二度と捕えられないよう神仏に祈るのである。しかし、この儀式にも裏があることを、ある女官が徳齢に教えてくれた。
〈「とてもお笑草だと思うのは、こうなのです、太后陛下が鳥どもをお放しになっていらっしゃる間、太監が数人あの丘のうしろに待っていてその鳥をつかまえて、また売るという風にするのです。太后陛下がいくらあの鳥どもの自由をお祈りになっても、鳥どもはすぐつかまえられてしまうのですよ」〉(322頁)。
西太后や宮殿監督・李蓮英の恐怖支配に対して、女官や宦官もなかなかしたたかで、一筋縄ではいかない者どもがそろっていたのだ。
なぜか西太后に気に入られた徳齢姉妹の波乱の生涯は、〈西太后のお気に入り、徳齢姉妹の数奇すぎる人生! 義和団で邸宅焼失、文革で大怪我、交通事故死〉で是非お読みください。