当時、ラジウムの価格は1グラム約10万ドル。「ラジウム成金」まで生まれるブームの一方、膨大な数の被曝者が出たのは悲劇というべきか。ラジウムを扱う工場労働者や医療関係者には白血病などで亡くなる人が相次いだが、多くは梅毒や敗血症と診断された。
放射能が人体に害をもつことは1920年代には少しずつ解明されていくが、マリー・キュリーは、自身の体調不良が放射線によるものとは決して認めなかったという。だが、彼女も1934年に再生不良性貧血で亡くなってしまう。
「マリーが遺した研究ノートは放射能まみれで、いまでも触るのは危険だといわれています。晩年は放射線で目に障害を起こし、弟子の大学院生が持ってきたグラフが二重に見えるような状況でした」(安斎氏)
暗黒の歴史が始まった

放射性物質を発見して得た名誉。しかし、彼女はその代償として、放射能で命を落としてしまう。人類にとって危険をもたらす放射能を発見してしまった、彼女の呪われし運命がここに見て取れるのだ。
死後、「放射能の父と母」としてあがめられたベクレルとキュリー。キュリーは1964年、ベクレルは1975年に放射能の単位として科学史に名を残した。キュリーの娘・イレーヌとその夫は、第二次世界大戦後にフランス原子力委員会委員と委員長に任命される。だが、このイレーヌも白血病で命を落とすのだから、なんとも皮肉な話である。
ちなみに放射能のもうひとつの単位「シーベルト」は、スウェーデンの物理学者で放射線防護の専門家、ロルフ・シーベルトからとられている。ベクレルとシーベルトに直接の交流はなかったが、シーベルトの生まれた年は放射線が発見された1896年と聞けば、なにやら運命めいたものを感じないでもない。
いまわの際、ベクレルとキュリーがなにを思ったのか、知ることはできない。だが、彼らの発見をもとに、新世代の天才たちが原子の力に注目し、悪魔の兵器と制御不能の原子炉が生み出されるのだ。
「放射性物質は核分裂を起こすことで莫大なエネルギーを生み出す。これを兵器に変えようと、キュリーの死の前後から、急速に研究・開発が進んでいくのです」(常石氏)
1930年代には、ドイツのオットー・ハーン、ハンガリー出身でアメリカへ亡命したレオ・シラードらが、ほぼ時を同じくして核分裂と連鎖反応のしくみを着想した。原爆と原発は、このしくみを利用した双子の技術だ。瞬時に反応を起こせば原爆となり、時間をかけてゆっくり反応を進めていけば原発になる。
ナチスドイツによる原爆開発を危ぶむシラードは、アインシュタインの仲介でルーズベルトに〝新型爆弾〟開発の直訴状を出した。これがやがて、広島と長崎を襲った原爆の開発につながるのはご承知のとおり。