一方、世界初の原子炉は「完璧な物理学者」と呼ばれたイタリアのエンリコ・フェルミが開発の中心を担う。1942年にフェルミが作りあげた原子炉「シカゴ・パイル」は、手作業で制御棒や減速材を操作するという代物で、コントロールにはフェルミの完璧な計算が欠かせなかった。
この実験に立ち会っていたシラードは、フェルミに対してこう呟いたという。
「今日という日は暗黒の日として人類の歴史に刻まれるだろうな」
その3年後にアメリカは原爆を広島と長崎に実戦投入、9年後の1951年には世界初の原子力発電を成功させる。以来、人類はまともに制御できない原発と付き合うという"暗黒の歴史"を突き進むのである。
ベクレルとキュリーが放射能を発見していなければ、あるいは後の科学者たちがその危険性に気づいて研究をやめていれば、日本は原爆にも原発にも苦しむことはなかったかもしれない。しかし、早稲田大学教授の小山慶太氏が「ベクレルたちの研究の原動力は、『珍しい現象が見つかった』という好奇心でした。『不思議だ』という好奇心と興奮が、科学者や世論を後押ししたのです」と言うように、おそらく放射能の発見は必然だった。そして科学者は科学者で、それぞれに苦悩を抱えてもいたのだ。
「原爆開発の引き金をひいたシラードやアインシュタインも、原爆投下には強く反対しました。シラードはトルーマン大統領へ請願書を出すなど、反対運動まで起こしていました」(友清氏)
1949年にノーベル賞を受賞した湯川秀樹が渡米し、アインシュタインと面会した際、アインシュタインは抱きつかんばかりの勢いで湯川のもとにやってきて、自分の研究が核兵器を生み出してしまったことを「許してください」と今にも泣きそうな様子で謝っていたという逸話も残っている。
ピエール・キュリーの警告
原爆だけではない。原発の開発者たちも同様の苦悩を抱え、危険を訴えていた。今からおよそ50年前、日本最初の原発・東海1号がイギリスから輸入されたとき、物理学者の武谷三男氏はこう言った。
「原発は、危険だと言う人が扱ってこそ、辛うじて安全なものができる。安全だと言う人が扱えば、こんな危険なものはない」
原発が身近な脅威となったいま、説得力のある言葉だ。『知性の限界』で知られる高橋昌一郎國學院大学教授の見解もこれに近い。
「人類は、まだ原子力を使いこなせるレベルには達していない。まずはそのことを認めるべきです。リスクを負ってまで開発すべきか、最終的には自分たちで議論して決めるしかない」
安全を喧伝してきた日本の原子力推進者たちは、先の武谷氏の言葉をどう受け止めるのか。さらにピエール・キュリーは、1905年のノーベル賞授賞式でこう述べている。
「ラジウムが悪の手に渡れば、世の中に危害をもたらすでしょう。危険かもしれないこの知識を、われわれはきちんと受け止めることができるだろうか」
もしも彼が福島原発の惨状を見たら、「悪の手に渡ってしまった」と嘆くかもしれない---。
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