本連載では顕微鏡サイズの「ロボット」や「人工知能(AI)」の研究現場を取材してきました。材料にタンパク質や核酸(DNAやRNA)、脂質など私たちの体にもある物質を使い、生物の優れた構造や機能を真似して、新しい技術を生みだそうとする試みです。それらは「分子ロボット」や「化学AI」とも呼ばれています。
第16回と第17回では「顕微鏡サイズ」を離れつつある分子ロボットも紹介しました。長さ数ミリメートルのナメクジに似た「スライム型分子ロボット」や、スポンジからぶくぶくと出てくる「多細胞型分子ロボット」などです。
今回は、それらを取材する過程で研究者の方々から得たアイデアやヒントをもとに、約30年後の未来を「妄想」してみました。物語形式で書きましたので、気楽に読んでみてください。内容はフィクションであり、実在する人物や組織、研究プロジェクト等とは一切、関係ありません。
カボチャかズッキーニみたいなクーペ
「おい、どうしたんだよ」
僕はカイトのステアリングを軽くたたきながら呼びかけた。
「調子悪いみたいだな」
カイトというのは、愛車の呼び名だ。車名は「living-matter based mobility supporter」の略で「リブモス」という。まだプロトタイプなので、所有者は世界でも数十人しかいない。僕は3歳児のころから16年間、その開発に関わってきた。
信号が赤から青に変わって、カイトは走り始める。だけど、いつもの勢いがなかった。前にいた軽自動車からでさえ、たちまち置いてきぼりだ。後ろから煽られるほどじゃないけど、制限速度そこそこで走っている。
「水素タンクも、バッテリーも満タンなのにな」
隣を追い抜いていく車の助手席から、物珍しげな視線が注がれた。いつものことだ。
カイトの外見は、少々、変わっている。お世辞にも「かっこいい」とは言えない。一応、2人乗りのクーペなのだが、どこか、もっさりしている。緑色のカボチャかズッキーニが、平たくなったような感じだ。質感も、そのての野菜に似ている。
「このままじゃ、遅刻かも」
僕はインパネの時計を見た。デートの待ち合わせ時刻まで、あと10分ほどしかない。ぎりぎり間に合うかどうかといったところだ。
思い返してみると1ヵ月ほど前、サトミを初めて助手席に乗せた時から、だんだん元気がなくなっていったような気がする。「なんかさあ、大きな動物のお腹の中にいるみたい。ちょっと怖いっていうか、キモい」。勝手にまつわりついてきたシートベルトに身を縮こませながら、彼女は言った。あの言葉を気にしているんだろうか。
「おい、もしかしてサトミを乗せるのが嫌なのか」
問いかけても、返事はなかった。それも当然で、カイトに音声や文字による会話機能はない。いわゆる電子的な人工知能(AI)は搭載していなかった。2053年型の標準的な乗用車と比べたら、かなり時代遅れだ。
それでもカイトに知能がないわけではなかった。DNA(デオキシリボ核酸)やタンパク質、脂質、糖質といった生体分子を使う化学的なプロセッサ(情報処理装置)は備えている。「ケミカル(化学)AI」とも呼ばれているらしい。人間の脳も同じ物質でできているから、そういう意味では生物に近いとも言える。
しゃべることはないが、機嫌の良し悪しはもちろん、カイトが感じたり考えたりしていることは何となくわかった。それはお互い様で、カイトも僕が伝えたがっていることや、感情、気分なんかは敏感に感じ取っている。やったことはないけれど、こいつの運転は乗馬に近いかもしれない。馬もしゃべりはしないが、たぶん知的で繊細だ。

多細胞生物のような3輪車
初めて出会った時、カイトはまだ3輪車だった。車輪や車軸、ペダルなんかを除けば、あとはほとんどが生体分子でできている。サドルはもちろんだが、ハンドルも握った感じが何となく柔らかかった。
そういった柔らかい部分を顕微鏡で拡大すると、髪の毛よりずっと細い線維が複雑にに絡み合っている。それは「DNAハイドロゲル」と呼ばれる物質でできていた。寒天はタンパク質のハイドロゲルだが、あれをナノサイズの糸にしたようなイメージだ。
その線維の間には、無数の細胞みたいな構造が、ぎっしりと詰まっていた。実際、一つ一つは生物の細胞と同じ脂質膜の袋で、中にはDNAやRNA(リボ核酸)、様々なタンパク質が入っている。そして外からの情報を受け取る感覚器(センサー)の役目をしたり、ケミカルAIのプロセッサになったり、その命令で動いたり、光ったりしていた。
この細胞のようなものは「分子ロボット」と呼ばれている。それらが多数、集まって構造をつくるための足場(マトリックス)を、DNAハイドロゲルの線維が提供していた。しかも、その線維自体、一種の分子ロボットで、エネルギーや様々な物質を生みだす役目も果たしている。そして、いずれも自ら増殖できた。
こうした点の全てが、やはり生物、とくに僕らのような多細胞生物に似ている。全体は、皮膚代わりの特殊なポリマーでコーティングされていた。
僕は3輪車のカイトを1年ほど乗りまわした。普通の3輪車と大したちがいはない。ただ急な下り坂にさしかかるとブレーキをきかせてくれたり、車道や危険な場所に出たりすると、安全な方へハンドルを切ってくれたりした。もっとも幼いころなので、僕自身にそういう記憶があるわけじゃない。全部、親から聞いた話だ。