日本の「深刻すぎる少子化」のウラで、いまだに「本当の児童手当」が存在しない歴史的理由

広井 多鶴子 プロフィール

1972年児童手当の発足――児童の養育費の一部を社会的に保障する

児童手当は、そもそもはすべての子どもを対象とする社会保障制度として構想されていた。児童手当制度を具体化した厚生大臣の私的諮問機関「児童手当懇談会」(座長有澤廣巳)は、1968年の「児童手当制度に関する報告」で、児童手当は、「児童の養育費の一部を社会的に保障する」ものであるとし、勤労世帯(月収3万円から6万円)の児童1人当たりの養育費の半額程度(月3,000 円)を支給すべきだと提案した。

しかし、結局、児童手当は第3子以降の子どもに限定され、所得制限も設けられた。当初の構想は大幅に縮小されたのである。

それは、拠出金を負担する経済界、および大蔵省と自民党の中に根強い反対論があったからである。日本経営者団体連盟(日経連)は、「児童手当制度に対する見解」(1969年)において、「児童の教育は、本来親の義務でもあり、しかも近年の所得水準の上昇に伴って大部分の家庭については、養育費の負担を困難にしているとは考えられない」と指摘した。

 

児童手当については、その発足当初から、児童養育費を社会的に保障するという理念と、児童の養育は親の義務であるという理念の間で、厳しい対立が存在していたのである。

とはいえ、そうした対立の中でも、「児童の養育費の一部を社会的に保障する」という児童手当の理念が否定されたわけではない。児童手当法第1条は、「家庭における生活の安定」と「次代の社会をになう児童の健全な育成及び資質の向上」を目的として定めており、この文言は今日も変わらない。

国会の審議では、こうした理念を実現すべく、児童手当の拡充を求める付帯決議が採択され、実際、1970年代後半までは徐々に拡充していく。5歳未満からはじまった対象年齢が義務教育終了まで引き上げられ、金額も3000円から5000円へ上がり、所得制限も緩和に向かった。1978年には低所得世帯に対する特例給付として、6000〜7000円が支給されることにもなった。

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