「大元帥陛下」と呼ばれていた昭和天皇の「陸海軍での階級」は、いったいなんだったのか? その「意外な答え」
昭和期の戦前、戦中を描いた映画やドラマでよく耳にする「大元帥陛下」という言葉。言うまでもなく昭和天皇を指す「称号」だが、じつはこの「大元帥」という称号は法で定められたものではなかった。陸海軍の統帥権を有する天皇の「軍人」としての階級はなんだったのだろうか、筆者が見聞きしたかつての軍人たちの議論をもとに深掘りする。

各地で催された「戦友会」
令和の現在では当事者の死去、高齢化によりほぼ消滅してしまったが、10年ほど前までは、旧軍人、戦争体験者による「戦友会」が日本中いたるところで開催されていた。
筆者の取材対象はもっぱら海軍だったので、便宜上、海軍を例にとるが、平成のはじめごろには、毎年5月27日の「海軍記念日」(東郷平八郎率いる日本の連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を破った「日本海海戦」の日。かつては国の記念日だった)の東京駅のコンコースは、熱海の温泉宿で開催される戦友会に向かう、海軍の略帽を被った高齢者であふれていたものだ。
戦友会は、同期生や部隊はもちろん、戦後勤めた企業単位であったり、居住地ごとだったり、さまざまなカタチがあった。筆者が取材でよく出席したのは、海軍兵学校の各クラス会、所属した航空隊や軍艦ごとの戦友会、青山の伊藤忠商事本社内で毎月行われていた「伊藤忠(青山)ネイビー会」、銀座の交詢社で隔月に開催されていた「交詢社ネービー会」そして元零戦パイロットが集う「零戦搭乗員会」などである。ほかにも、海軍技術士官の「夏島会」、潜水艦乗組員の「いろは会」、さらに鉄道沿線ごと、たとえば「京王井の頭線ネイビー会」「西武池袋線ネイビー会」などがあった。