錦織一清さんの著書『少年タイムカプセル』(新潮社)は、日本のエンターテインメントを支えるジャニーズ事務所が、エンタメを支えてきた理由が浮かび上がってくるような一冊だ。
錦織一清さんが少年隊として、いちアーティストとしてエンターテインメントをどのように作り上げてきたのか、ジャニー喜多川さんからどのような影響を受けたのかインタビュー。前編「錦織一清が語る昭和のジャニーズ「僕が合宿所に通い詰めた理由」」では、まだYouTubeもネットもなかった時代に、ジャニーズ事務所でなぜ高クオリティのダンスが完成していったのかを伺った。
後編では、ジャニーさんから受け取った明言の数々を振り返り、その意味を教えていただく。

ベストテンの中継のために海外の仕事を?
――少年隊がデビューした1985年は『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』『夜のヒットスタジオ』など生の歌番組が全盛期でした。あの頃の歌番組で、特に印象に残っていることはありますか?
とにかくジャニーさんはスタジオが嫌いで、なかでも一番嫌いだったのが、僕らがバンド前で普通に歌うことだったんです。だからバンド前で歌った記憶がほとんどない。
反対に好きだったのは、スタジオから離れた場所からの中継。「ザ・ベストテン」でよく見かけた、「少年隊のみなさーん!」「黒柳(徹子)さーん! いま僕たちはコンサート会場にいまーす!」とか、そういうのが大好きだったんです。「コンサートが終わった後、現場から中継するとファンの子たちが喜ぶから」って言ってね。

L.A.やラスベガスから中継したこともありました。レコーディングで滞在していた場所から繋いだのですが、ここだけの話、それをやるためにわざわざ海外に行ったこともあったんです(笑)。そういう歌番組への出演ひとつとっても、ジャニーさんはエンターテインメントを意識していたんですね。
何が何だかわからない状況と言いますか、とにかく慌ただしかったですね。歌番組の生放送も毎日のようにありましたし、「はい、今週は〇位です!」って言われて、扉からバコーンって出て歌って、という感じでした。
NHK紅白歌合戦も、出番ギリギリまで練習して、順番が来たら歌う。で、白組の応援に出るタイミングが来たら出て行って、ワーってやって。年が明けた時報を聞くのはNHKの駐車場。もう新年の感動も何もなかったです(笑)。