2023.04.01

まるで奴隷…惨めな労働に道徳的な価値があるとされたのはなぜ?

生産性という病(2)
いつ、誰が、なぜ、「働くことはよいことだ」と言ったのか? 現代社会の「生産性という病」を解剖する連載第2回は、労働と道徳的価値が結びつけられた歴史的過程を辿りつつ、「自己責任」のロジックを蔓延させた修養主義や自己啓発の‟詐術”を暴く!
連載第1回「もううんざり! 競争社会から降り始めた現代のディオゲネスたち」はこちら)

「働くことはよいことだ」!?

 私たちは日々「生産性」に駆り立てられ、「成果」を示すことを強いられ、その結果私たちは倦み疲れている。

 私たちを「生産性」に駆り立てるもの、それは主に労働と呼ばれている。私たちは毎日の労働を通じて、何かを生産したり、成果を上げたりする。労働という名の回り続けるPDCAサイクルには終わりがない。この円環に一度巻き込まれたが最後、身体が満足に動き続ける限りそこから抜け出ることは叶わない。

 現在、労働はそれ自体がひとつの「価値」として崇め奉られているほどだ。働くことは「善き」ことであり、「義務」であり、「徳」である、云々。それとは反対に、働かないことは、「怠惰」であり、「非生産的」であり、「無価値」であり、「反道徳的」である、云々。

 労働と道徳は近代社会のなかで深く結びついてきた。労働時間の短縮やワークライフバランスの重視といった考え方が広まってきた現代においても、勤労に対する道徳的な価値観は不動のままに見える。生活保護受給者に象徴される貧困や社会的弱者に対するあからさまな蔑視は、勤労という概念に道徳的な優越性が深く根を張っていることの証左に他ならない。

人間的尊厳を打ち砕く労働の「惨めさ」

 唐突だが、労働が私たちに押し付けてくる「惨めさ」について思いを馳せてみよう。

 たとえば、フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユは、一九三四年から一年間、アルストムやルノー等の工場で働き、その間の日記を『工場日記』として遺している。そこに記された工場における労働の様子は、一言でいえば過酷を通り越して凄惨と言うほかない。ヴェイユは「これまで、社会がつくり上げてきた人間的尊厳は打ち砕かれてしまった」(1)と記す。

 人間的尊厳をも打ち砕くほどの労働とは一体どのようなものなのだろうか。彼女はとある一節で次のように記している。

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