SNSの発展で、誰もが発信者になれるようになって久しい。けれど本当に発信したくてそれをしてる人ってどれくらいいるのだろう?
POP思想家・水野しずさんは、SNSに溢れる「需要ありますか?」という問いかけから、人間の行動原理のままならなさを見る。そして「需要を気にする人」と「気にしない人」の差、それこそが「実力」の問題なのだと提案する。
各界に多くの支持者を持つPOP思想家の水野しずさんが、ユーモアを交えつつ誰とも違う視点で哲学する初の論考集『親切人間論』から特別抜粋掲載でお届けする第3回は、そんな実力の新しい定義に関する考察。
「需要ありますか?」はSNSで定型句
「需要ありますか?」
という質問が、SNS上では半ば定型句と化している。
「私のメイク配信って需要ありますか?」
「サブチャンネルでバイクの話しようと思ってるのですが、需要ありますか?」
定型句だから応えるフォロワーも、「はい需要がここにあります」などとは言わず、黙っていいねボタンを押している。このようなフローを経て需要があると判断された場合には、需要に伴った規模の供給としてなにかしらの行為が行われる。供給をする側よりも、需要を発生させている側が川上にいるような錯誤を催す風潮の力学は、どのSNS上でもある程度蔓延している。特に与えられたシステムに沿って人生の大枠を構築することになんら疑問がなく、ありがたくバズりを享受している人からは、私はこのような意見を投げかけられる。
「YouTuberやればいいのに。絶対人気出ますよ」
フルマラソンやればいいのにとは言われないのに、どうしてYouTuberは頻繁にやるよう促されるのか。42.195キロを完走するように他人に勧められる謂れはないだろうと予測できる人々が、毎日動画を撮影し編集しアップロードするような日々に身を窶すことを他人に斡旋するのはなぜか。「やってほしい」なら分かるけど、「やればいいのに」とはどういう発想なのか。いいかどうかを、誰がどこで、どう決めると思っているのだろうか。


この奇妙な齟齬が発生する原因は、冒頭で述べたようにSNS上でのふるまい、行動原理が徹頭徹尾「需要」に付き従いコントロールされているように「見えてしまう」構造が横たわっているからだ。しかし、そうではない。「実力者」は別のところに行動原理がある。
ここで言う「実力」とは、私が日頃から用いている独自定義の「実力」であって端的に言えば
「それをやっている本人の中に、動機がある」
状態を「実力」としている。したがって、世間一般的に需要があるかどうかではなく自分の内心に物事を行ったり金銭を支払ったりする動機を見出せる人物のことを私は「実力者」と呼んでいる。