おぼえていることと勝手にかんがえていること

<大江健三郎リレーエッセイ>

大江健三郎さんの衝撃

 今でもおぼえている。大学生の一人暮らしのアパートで初めて『叫び声』を読み始めた時、それは僕にとって初めての大江健三郎さんの小説だったのだけれど、最初の数ページを読んだところで立ち上がり、トイレに向かった。用を足したかったからではなく、心を落ち着かせるためだ。

〈そのころ東京にいく台のアウト・スポークの白いジャガーがあったかしらないが、僕らはその僕らの車を、フランス風にジャギュアと呼んで、他のすべてのジャガーと区別していた。〉

 といったあたりの文章に、じっとしていられなくなった。これだ、これだ、と胸の内で何かをぎゅっと握りたくなった。その感覚は、高校生の時に、クラッシュの一曲目を聴いた時と似ていた。自分にぴったりの、特別注文したかのようなものがここにあるぞ、という予感だ。

 トイレから戻ると、部屋の壁によりかかり、そのまま読み終えた。

 翌日になれば、原付バイクで大学の書籍部に出かけ、大江健三郎さんのほかの本を買い、アパートに戻り、ひたすら読み、読み終え、次の日にもまた書籍部に出向き、別の大江健三郎さんの本を買い、アパートに戻り、読み、ということを一週間だか十日くらい続けた。

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 大江健三郎さんの小説と出会ったばかりの僕は、帰省した際に父親に、「大江健三郎という作家がいる」と同世代のロックバンドについて語るかのように話したのだけれど、すぐに、「俺の時代からいる」と言われ、ショックを受けた。あ、昔からいるんだ?

「ピンチランナー調書」を読み終えた時にはあまりに感動し、ちょうど実家の居間で弟がいたものだから、最後のところを音読してみた(何でそんなことをしたのか不思議でしょうがない)。

〈すがりついているタンカー業者の肩ごしに大顎をバックリ開けて死んでいるのが見える「親方」の、最終の野望の手がかりはたちまち灰。そして燃える森。再びガラスの砕片の上に〜〉

 といった文章の、「親方の」とか「たちまち灰」とかいったあたりを口にした時の気持ち良さといったらなく、どうやったらこういうものが書けるのか、と感動、というか途方に暮れるというか、ぼうっとしてしまった。

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