侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹監督の「選手を信じる力」はなぜ生まれたのか(後編)

WBCで侍ジャパンを世界一に導いた栗山英樹監督の指導力の高さに、いま注目が集まっている。コーチ歴がなく野球の面白さを伝える側だった立場から、日本ハムファイターズの監督へ。初年度でチームを優勝に導いた先に待っていたのは、二刀流の夢をかかげた大谷翔平の入団というサプライズだった。大谷との師弟関係に、ジャーナリストの石戸諭氏が迫る。

【前編】「侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹監督の「選手を信じる力」はなぜ生まれたのか」

【中編】「侍ジャパンを優勝に導いた栗山英樹監督の「選手を信じる力」はなぜ生まれたのか」

二刀流を生んだドラフト会議

斎藤佑樹が短い輝きを放ち、リーグ優勝を果たした2012年シーズンに栗山英樹が言うところの「野球の神様」は、もう一つのサプライズを用意していた。大谷翔平のドラフト指名である。当初からアメリカ球界を目指すと公言していた大谷に対し、11球団は手を引いた。その年のもっとも良い投手、もっとも良い打者を1位指名する方針を掲げる北海道日本ハムファイターズだけが見方によっては、強行指名を果たした。社会は「若者の夢を潰す」ように見えた球団に否定的な反応を示した。

今や誰もが成功だったと思っている大谷の日本球界発メジャー行きのスタートは、逆風しか吹いていなかった。

ドラフト会議前日の2012年10月24日に、ファイターズは栗山や球団幹部を交えた最終会議で大谷指名、そして二刀流で育成する方針を確認していた。メディアを通じて、大谷が描いていた将来像も知っていたし、何よりメジャーでも二刀流で活躍するに値するだけの素質があると確信していた。シーズン中のようなユニフォームではなく、ネイビーのジャケットに明るめストライプタイという姿で、報道陣の取材に応じた栗山は「申し訳ない」という言葉を何度も繰り返した。

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その年のドラフトで誰を指名するべきか、球団幹部から意見を聞かれることもたびたびあった。栗山は、当時のGMである山田正雄、あるいはGM補佐の吉村浩と顔をあわせるたびに大谷の名前を口にした。2012年春の選抜高校野球で、花巻東高校の大谷は、1回戦で対戦した大阪桐蔭の藤浪晋太郎(現阪神タイガース)、森友哉(現埼玉西武ライオンズ)バッテリーから本塁打を放つ。ところが投手としては九回途中までに11三振を奪ったものの、9失点を喫して敗戦投手になった。さて、大谷はピッチャーとバッター、どちらに可能性があるのだろうか。日本中の野球ファンと同じように、ファイターズでも議論があった。うちに来たら、どこで使うだろう。議論に議論を重ねても結論は決まっていた。

「大谷なら、どちらでもできる」

栗山はスポーツキャスター時代、東日本大震災が起きた2011年に大谷を取材した経験がある。これまで見てきた高校生投手とは段違いの投球を見せた。継続的に見ていると投球だけではなく、バッティングでも非凡な才能があることがわかった。プロで活躍するなら投手か打者か。高校野球では「エースで四番」はいつの時代にもいたが、この二択が無意味なものだと感じさせた初めての選手だった。

「とんでもない選手が入ってきますよ」

栗山が「大谷翔平」の名前を初めて聞いたのは、まだ花巻東高校の3年生だった菊池雄星(現トロント・ブルージェイズ)からだった。取材中に「栗山さん、俺が抜けた後に、とんでもない選手が入ってきますよ」と彼は言った。それが、菊池への憧れを公言した大谷だったのだが、その時はまだ取材ついでに聞いた雑談でしかなかった。だが、東日本大震災の取材で、沿岸部出身の球児を訪ねたときに印象は変わる。この年の高校野球は何もかもが特別だった。北関東から東北沿岸部には被災した球児たちが数えきれないほどいて、花巻東のような内陸の強豪校にも沿岸部から進学した選手がいた。こんな話がある。

大谷の控え投手だった佐々木毅と、バッテリーを組むこともあったキャッチャーの佐々木隆貴は、ともに東日本大震災の津波に家族がさらわれた。毅の祖父は行方不明、隆貴は祖父母を亡くしたのだ。2011年3月11日に寮は一時閉鎖し、両親にメールや電話をしても返信がなかった二人は野球部の先輩の親戚宅に身を寄せた。3月13日、親族の消息が分からず憔悴しきった彼らのために、監督の佐々木洋はスクールバスを調達し、「安否確認のため、現地に行くぞ」と迎えにいった。バスの車内では誰もが、言葉を発することができず、沈黙だけが広がっていた。

大津波の被害を目の当たりにした隆貴は、野球をやめるだけでなく高校中退、就職を考えたが両親はその思いだけを受け止め、野球を続けるように言った。監督はすべてを知った上で「きっちり卒業し、自分の家を建てられるくらいの仕事に就け。バックアップはする」と激励したという。「沿岸部の生徒は強かった。家を流されて私ならこんなに毅然とは振る舞えない」と佐々木洋は語っていた。

栗山が感嘆したのは、大谷の投球、打撃だけではなかった。インタビューをすると、まだ16歳の大谷は捕手を慮った言葉を口にした。一見すると野球の成績とは関係がない話かもしれない。だが、他人への気遣いは同時に状況を冷静に観察する力と視野の広さを物語る……。

高校時代を知る栗山にとっても、大谷が当初の意思を翻して入団するかは未知数だったが勝算がないわけでもなかった。ドラフト会議当日、花巻東高校の練習着姿で報道陣の前に姿をあらわした大谷は、「自分の思いは変わらない。評価をいただいたことは嬉しく思っている。嬉しくもあったが、動揺もしている」と率直な思いを吐露した。交渉は難航するように思われていたし、実際のところ栗山も、もし彼が「アメリカに行きたい」と口にしたら、その時点で諦めるつもりだった。だが、交渉の場で語られたのは「メジャーリーグで活躍したい」という夢だった。ここに交渉の糸口はあった。

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