「障害者は放置して死んでいくのを待て」酷すぎる医者の言葉…明石市長・泉房穂が抱えた「強烈な違和感」
自民党総理候補に泉房穂が圧勝!
4月23日に投開票された統一地方選。兵庫県明石市でこんな大事件が起きた。自民党は立憲民主に圧勝したと吹聴するが、明石市では泉房穂氏が立ち上げた地域政党「明石市民の会」に完全に敗北した。
明石市は泉房穂氏が3期12年にわたって市長を務めてきた。全国に先駆けて「異次元の子ども施策」を実行し、市の出生数のみならず人口、税収も飛躍的に伸ばして「明石モデル」と称賛された。今回はその名物市長が、これまたお馴染みとなった「暴言」を理由に辞職(政治家引退)。今回の市長選に突入した。
泉氏の市長任期はこの4月いっぱい。市長退任翌日の5月1日に出版される泉氏の著書『政治はケンカだ! 明石市長の12年』がいま、話題を呼んでいる。市長在任中にはけっして口に出来なかった、改革に抵抗する勢力との闘いの内幕を明らかにしているからだ。聞き手を『朝日新聞政治部』の著者で気鋭の政治ジャーナリスト・鮫島浩氏が務めている。
市議会、政党、宗教団体、マスコミ、市役所職員……。泉氏が「四面楚歌」の状態でいかに闘争してきたか、同書にはすべて記されている。前回記事に引き続き、発売に先駆け、同書の内容を特別に公開する。
連載『政治はケンカだ!』第2回中編
国を挙げて障害者を差別する施策を推進
泉 当時は「優生保護法」という法律があり、国を挙げて障害者を差別する施策を推進していました。なかでも兵庫県は悲惨な状況でした。当時の兵庫県知事が自ら音頭を取って「不幸な子どもの生まれない運動」という政策を推し進めていたのです。障害者への不妊手術等の強制や、妊婦の出生前診断を奨励し、羊水検査で障害を持つ可能性が高いとわかったら、生ませないようにする運動でした。
うちの弟も、障害を持って生まれてきたので、両親はそのまま見殺しにするよう医者に言われました。「放置して死んでいくのを待て」と。
鮫島 恐ろしい話です。たった50年前の日本で起きていた現実ですからね。
泉 両親は、いったんは承諾してしまったのですが、「やっぱりこの子を死なせることはできない」と思い直し、私が待つ自宅に弟を連れ帰ってきました。「障害が残ったとしても、自分たちで責任を持ちます」と突っぱねたんです。私は両親から「お前は将来、親が死んだら弟の世話をせえ。そのために二人分稼げ」と言われて育ちました。両親の言う通り、二人分稼がないと弟と生きていけないし、両親を楽させたいという思いも幼心に強かった。だからこそ、自分が勉強を頑張らないと、と思いました。
助けるどころか、障害を持って生まれてきた子どもとその家族に鞭打つような施策を、行政が公然と行う。私は幼いながらに「こんなやり方は絶対に間違っている」と強く思いました。うちの両親は、そんな時代にあっても「何も恥ずかしいことはない」と、あえて弟を街に連れ出しました。その後、障害児を持つ家族たちが集う場を明石市内に作り、小学生だった僕も放課後はよく連れて行かれました。
そうすると、昼間に通う学校が嘘っぽく見えてきたんです。障害を持つ子どもたちが本当はたくさんいるのに、あたかもそういう子が存在しないかのようにして成り立っている“普通”の学校に対して、強烈な違和感を抱いた。
うちの弟は、小学校に入る前に立ち上がって、よちよち歩きではありますが、歩けるようになりました。家族みんなで「小学校入学に間に合った」と喜び合いました。ところが、当時の行政は障害を理由に、近くの小学校への弟の入学を認めなかった。「徒歩通学は大変だから、電車とバスで行ける遠くの学校に行け」と言うのです。
誓約書を出すことで弟の入学は認められましたが、私はその理不尽さに憤りました。だからこそ、たった一人でも「例外」を出してはならないと、強く思った。くさい言い方ですが、「冷たい社会を優しい社会に変えたい」と本気で思い、小学5年生の時には明石市長になりたいと考えるようになりました。