参謀本部『機密作戦日誌』から見る「満州事変」 の知られざる“裏側”…「柳条湖事件」を新聞で知った参謀本部部員

昭和の戦争では、何が起こっていたのだろうか。

歴史の受け止め方は人それぞれであるが、実際に事件に関わった人たちが、何を考えていたのか。権力者は、不確かな情報をもとに、時間の制約を受けながら、確信を持てないままに、決定を下す。そのような過程を再現するには日記がうってつけである。

本記事では学習院大学教授の井上寿一氏が、当時の日誌や日記から満州事変を紐解く。

※本記事は井上寿一『昭和の戦争 日記で読む戦前日本』から抜粋・編集したものです。

柳条湖事件が勃発した時

「昨夕退庁時までは何等異変突発の兆なく部員の多くは今朝の新聞記事に驚かされて出勤す」。

この引用文は1931(昭和6)年9月19日の参謀本部『機密作戦日誌』の一節である。前兆はなかった。参謀本部の部員が事件を知ったのは新聞を読んだ時だった。新聞各紙は「支那軍満鉄線を爆破」「日支両軍衝突」と報じていた。前日18日の午後10時30分頃、奉天駅北方の柳条湖で、南満州鉄道線が爆破された。以下では『機密作戦日誌』に依拠して柳条湖事件が勃発した翌日の参謀本部の状況を再現する。

参謀本部第二課が出兵計画を研究していると、「一種の妙な心理」に突き動かされて、他の部課員も集まってきた。第二課は「無用の者入室謝絶」と室扉に掲示した。そこへ閣議の模様の情報が伝わる。「幣原〔喜重郎〕外相は外務側に於て得たる各種の情報を朗読せり。其情報は極めて陸軍に関し不利なるもの多し」。幣原は日本軍の仕業との心証を得ていた。「外相の言辞はそれと無く今回の事件は恰も軍部が何等か計画的に惹起せしめたるものと揣摩せるものの如かりし」。

確証を得ているかのような幣原外相の強気の発言を前にして、南次郎陸軍大臣は後退を余儀なくされる。「南陸相は右の如き外相の電文朗読並に口吻を聴き意気稍々挫け閣議席上の空気に処して今朝鮮軍より増援することの必要を提議するの勇を失えり」。関東軍は満鉄の沿線とその付属地を守るにすぎなかった。戦闘を継続するには朝鮮軍の援軍が必要だった。しかし南陸相は言い出せずに終わった。

午後3時30分、金谷範三参謀総長が拝謁する。「此時〔奈良武次〕侍従武官長に対し総長自ら朝鮮軍司令官の独断出兵は其処置妥当と認め難きものと考うる旨を述べたる所武官長亦其感を同じゅうするの意を表明せり」。

『機密作戦日誌』は続ける。「而して総長は本件に関しては聖上に於かせられてもお喜び遊ばされざる様仄聞したるを以て上聞に方り朝鮮軍司令官の独断的処置に就きては恐懼する所にして事情を審議すべき旨言上したり」。本庄繁関東軍司令官の要求に応じて、林銑十郎朝鮮軍司令官が独断で混成旅団の派遣を決定した。午前10時頃、先頭車両が出発する。金谷が国境を越えないよう命令した直後のことだった。金谷は林の独断に「恐懼」した。

それでもこの日、参謀本部の首脳会議は閣議の不拡大方針に服するとの結論に至る。「本事件突発後に於ける軍事行動を現在以上に進展せしめざるを主義とする閣議の議決事項に対し軍部は之に強て反対の主張をなすを要せざるべし」。