昭和の戦争では、何が起こっていたのだろうか。
歴史の受け止め方は人それぞれであるが、実際に事件に関わった人たちが、何を考えていたのか。権力者は、不確かな情報をもとに、時間の制約を受けながら、確信を持てないままに、決定を下す。そのような過程を再現するには日記がうってつけである。
本記事では、前編『参謀本部『機密作戦日誌』から見る「満州事変」 の知られざる“裏側”…「柳条湖事件」を新聞で知った参謀本部部員』にひきつづき、日記や日誌から満州事変を紐解いていく。
※本記事は井上寿一『昭和の戦争 日記で読む戦前日本』から抜粋・編集したものです。
「内閣の致命傷」——外務省
幣原外相が柳条湖事件の勃発を知ったのは、参謀本部と同様に、翌19日の新聞の朝刊を読んだ時だった。新聞報道とは異なって、事件が関東軍の謀略だったことは、外相や外交当局者にはよくわかっていた。
たとえば外交官の芦田均は、遠く離れたベルギーで、19日の日記に記している。「満州で日支の軍隊の衝突があり、日本軍は奉天を占領したとの報道が新聞に出た。/これは明白に陸海軍のやった計画的の仕事に相違ない。困った事件を起したものだ」。
不拡大方針が閣議決定された翌25日にもかかわらず、芦田は悲観的な見通しを日記に記す。「満州事件は〔国際〕連盟でガヤガヤ騒ぐ。支那は咆える。軍部は頑張る。外務省は薄野呂扱にされる。政府も苦しいだろう。然し結局此事件が内閣の致命傷になると思う」。芦田は嘆く。「外交官らしい働をする人の鮮いのも驚くべきものだ」。
そう批判する芦田の態度もほめられたものではなかった。芦田はこの日(9月26日)ゴルフに行っている。この日に限らず、午後はゴルフが日課だった。ゴルフのスコア向上に余念がない芦田はどこか緊張感が欠けていた。ゴルフ三昧の毎日を過ごす芦田にとって、満州事変は他人事のようだった。
それでも事態は収束を指向していた。なぜならば事件の拡大に海軍が消極的だったこともある。9月29日に陸海軍の軍事参議官が満州事変をめぐって懇談している。席上「海軍側は本事変に対し熱意なきが如し」だった。
それというのも海軍側は「満蒙よりも長江方面の権益擁護が急務なりとの空気」が濃厚だったからである。陸軍側は「国論の分裂」の恐れと「陸軍のため甚だ不利なる事態を生ずることあるを予期」せざるを得なかった。現地軍は四面楚歌に陥りそうだった。