弱者を見捨てない道を選ぶエマ
『約束のネバーランド』は自然淘汰されてしまう生物へのケアを前面に押し出している。同時に、社会における"自助"の論理をも批判的に捉え、弱者を救済することに価値を見いだしている。(以下、『約束のネバーランド』の内容に踏み込んだ記述があるため、未読の方は注意してお読みください。)
主人公エマは、最初自分のことをグレイス=フィールドハウスという施設で暮らす普通の子どもだと思い込んでいたが、ある少女の「出荷」を目撃してしまい、その孤児院で暮らす子どもたちは皆、鬼の「食用児」として育てられていることを知る。
そこで、年長者であるエマ、ノーマン、レイは食用児として出荷されることを拒み、脱出を企てるのだ。興味深いことに、この作品のプロットは弱者が強者の地位を奪い、弱者の王国が創造されるというものではない。おそらく、その理由のひとつには、現実的に「鬼」に体現される社会の強者は、特権を手放したりしないだろうというリアリティの問題があると推測できる。
しかし、それよりはるかに大事と思えるのは、そもそも〈弱者〉と〈強者〉は、さまざまな文脈において存在しており、複数のレイヤーにおいて考えられなければならないということだ。当たり前のことだが、世界は特権をもつ強い人間と特権をもたない弱い人間に大きく二分できるわけではない。
個々人は、階級、ジェンダー、セクシュアリティ、人種など、その他のさまざまな属性をもち、それらが複雑に絡まり合った形で存在している。
『約束のネバーランド』における鬼の世界にもさまざまな階層の鬼(貴族の鬼、庶民の鬼、野獣化した鬼など)がいる。また、人間も捕食/搾取される食用児以外に一部特権的な人間が存在している。
さらには食用児たちのなかでも、〈強者〉と〈弱者〉を描き分けるリアリティに度肝を抜かれる。エマ、ノーマン、レイのように年長者で賢く、有能で、運動能力も高い〈強者〉は、いかなるときも自分たちより弱い子どもたちの〈アライ〉"ally"(=味方)として行動する。
これは、食用児のなかでもある種の特権をもつエマがつねに最弱の存在の他者性、そして彼らの〈クオリア〉を基準にして生きているからである。「農園」から脱出するとき、運動能力の低い弱者を切り捨てたほうが計画の成功率は上がったはずだが、エマは弱者を見捨てない道を選んでいる。
もちろん、エマの提案は一度はノーマンやレイに却下されるのだが、運動能力の低い子どもたちも一緒に脱出できるよう時間をかけて計画を練り、周到な準備をすることで、実現可能となる(*1)。