『鬼滅の刃』の〈アライ〉たち
鬼が人間を捕食する物語『鬼滅の刃』でも、弱者を見捨てない〈アライ〉たち、つまり主人公の竈門炭治郎や鬼になった妹の禰豆子、そして鬼殺隊の仲間が活躍する。(以下、『鬼滅の刃』の内容に踏み込んだ記述があるため、未読の方は注意してお読みください。)
鬼を倒す鬼殺隊の一員として戦いながら、その鬼たちにさえ共感する炭治郎は、『約束のネバーランド』の鬼のムジカたちを殺さない道を模索するエマを彷彿とさせる。
『鬼滅の刃』が「【中篇】『約束のネバーランド』が描く「特権性」のリアル。エマとレウウィスに共通する驚異的な「才能」とは?」で論じた『約束のネバーランド』の鬼たちと異なるのは、生まれたときから圧倒的な〈強者〉であったわけではない点だ。禰豆子の例からもわかるように、鬼になる者はかつて人間であった。強い鬼として描かれる猗窩座というキャラクターもそうだ。
猗窩座といえば、「無限列車編」(第8巻)で炎柱・煉獄杏寿郎との死闘を繰り広げた強い(上級の)鬼として有名であるが、杏寿郎の命を奪った悪漢として記憶に残っている人も多いだろう。
しかし、第18巻で明かされる人間だった頃の彼、つまり狛治の過去が「内」から語られ、読者に彼のクオリアが共有される。鬼の猗窩座が「強さ」に異常な執念を燃やす背景には、彼がまだ狛治と呼ばれていた人間であったころ、貧困によって犯罪に追い込まれてしまうという社会構造があった。
狛治は病気知らずの健全な身体を備えているが、病に臥せる父親のために持ち帰る薬を買う金がない。そして、盗みを働く。そのために、狛治はつかまって重い刑罰に処せられ、肉を裂かれたり、骨を折られたりするのだが、父親のためなら何百年も耐えられると言う。
彼のこのような精神のことを、植朗子は「優しい狂気」と呼んでいる。強い鬼ほど、人間を食らうようになる前は、強さが救いという強迫観念に取り憑かれるほどに弱いのだ(*1)。そう考えると、弱者と強者の境界線は思ったほど明確ではないのかもしれない。