壊れてしまう可能性は、生まれ変わるきっかけでもある
だんまり、つぶやき、語らい──その42020年10月15日、コロナ禍のなか愛知県立一宮高校の生徒に向けておこなわれた講演の記録。碩学のあたたかい語りかけを単行本から抜粋、ウェブ向けに独自に再編集してお届けする(全5回のその4)。
京都市立芸術大学の卒業式
ぼくは2015年から2019年まで京都市立芸術大学の学長をつとめました。
それまでは大きな大学にばかりいたので、卒業式といっても代表のひとに卒業証書を渡すだけだったんですけれど、音楽と美術を合わせて200人ほどの大学には、昔からずっと守られてきた卒業式の作法があるんですね。

卒業生全員の名前をひとりずつ呼び、ひとりずつ起立して、大きな声で、はい!と答える。
大学へ入ってきたときには、先生も職員さんも新入生のことをなにも知らないけれど、小さな学校だから、4年間、ああ、この子はなにに苦しんできたか、なにに悶えてきたか、どんな格闘をしてきたか知っている。実技の世界ですから、みんな見ているわけです。ぼくはじかに教えない学長という立場でしたが、たいていの学生の顔がわかったし、教職員のひとたちはほぼ全員の顔を知っていた。
そんななかでの卒業式です。学生が一人ひとりの〈個〉として、これから社会のなかで生きていく。その出発地点なのですから、だから○○学科代表でも、卒業生一同でもなしに、一人ひとりを名前で呼ぶ。ずっとそうやってきた。
ぼくのあとに就任した学長さんのときは、コロナ禍のため、たいていの大学で卒業式が中止になりました。でもこの大学は、京都でおそらく唯一だと思いますが卒業式を挙行したんです。
「密」を避けるため保護者の列席はご遠慮いただき、時間を短縮するため来賓のご挨拶もいくつか省略したそうです。でも、学生一人ひとりに名前で呼びかけ、それにたいし学生は「わたしはここにいます」という意味で「はい!」と答えて起立する作法だけは曲げなかった。大学の方からそう聞いて、ほんとうによかったなと思いました。
そこで「つぶやき」の話に戻ると、断片的にぼそっと差し出された「つぶやき」にさわるところからようやく「語らい」が始まります。それがはたして、いまのTwitterというもの——tweetは「つぶやき」という意味ではありますが——と通じるものか……。ぼくには似て非なるものに思われてしかたがありません。