2023.05.09

さあ厚別と白石の再会だ。乾杯だ

保阪正康『Nの廻廊』をよむ その2

昭和史研究の第一人者であるノンフィクション作家の保阪正康さんの新刊『Nの廻廊』が各紙誌で話題だ。Nとは5年前に自裁した思想家・西部邁さんのこと。保阪さんと西部さんは中学生のとき、札幌郊外から市内まで汽車と路面電車でともに越境通学していた間柄だった。30年余を経てふたりが再会したとき、保阪さんはあることを誓う……。
(全5回のその2。本記事は『Nの廻廊』の一部を抜粋、Web用として独自に再編集したものです)

あの人がそういう言いかたをするときはウラがある

「緊張しますか。だって30年以上も前になるんでしょう。保阪さんと同じようにNさんも相当緊張していると思いますよ。なにしろ、保阪さんのこと知らないというんですよ。あの人がそういう言いかたをするときはウラがあるんです。自分の弱みを知っているんじゃないかとかね」

ある出版社の編集者Aさんが、その社の喫茶室で私のこわばった表情をやわらげようとする。昭和61年(1986)の秋であった。

(PHOTO)iStock

夕方の陽射しがさす喫茶室では編集者と作家連中が雑談を交わしたり、打ち合わせが放談の会になったりしている。そうか、32年前か。高校時代は、私は寄留が認められずに札幌東高校に進んだため、通学の友人ではなくなったが、それでも街で出会うこともあった。「おう」と何度か立ち話もした。しかし胸襟を開いて話しあう時間はなかった。

その後、Nは東大に進み、大学時代から有名人であった。全学連の指導者であったのだから、それからの動きはことあるごとに報じられている。60年安保闘争の指導者として、いくつかの罪名の裁判を受け、刑の判決には執行猶予がつき、その後大学に戻り、研究者の道を歩んだ。何冊かの著作を著し、しだいに保守の側の論客に名を連ねるようになっているのは知っていた。

私はと言えば、昭和47年に出版社を辞め、物書きの道に入り、ノンフィクションやドキュメントを書く側にいた。とくに志したわけではなかったが、昭和史に関心をもつようになり、その分野の書籍を何冊か刊行していた。たまたまある出版社の私の担当者AさんがNの担当となった。それを聞いて私は、「Nさんとは中学時代に2年ほど、毎日朝夕、いっしょに越境通学したんだ」と思い出を話した。

それがきっかけであった。Aさんは興味をもち、Nにもそれを伝えたというのである。

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