ともに妻を喪ったふたりの男。60年の歳月を経て去来するもの
保阪正康『Nの廻廊』をよむ その5昭和史研究の第一人者であるノンフィクション作家の保阪正康さんの新刊『Nの廻廊』が各紙誌で話題だ。Nとは5年前に自裁した思想家・西部邁さんのこと。保阪さんと西部さんは中学生のとき、札幌郊外から市内まで汽車と路面電車でともに越境通学する間柄だった。
思いがけず伴侶に先立たれた保阪さんに西部さんがかけた言葉とは? そして、あえて死を選び取った友に、保阪さんの心中に去来する思いとは?(全5回の最終回。本記事は『Nの廻廊』の一部を抜粋、Web用として独自に再編集したものです)
その2「さあ厚別と白石の再会だ。乾杯だ」
その3「Nは東大を辞めた。そして10年が経って」
その4「保阪正康が親友・西部邁の変化に不安を抱いた夜」
自筆のファクス
私の妻が急死したのは平成25年(2013)6月20日であった。私にはなにがなんだかわからない数日間であった。

私はその3日ほど前から、朝早くに仕事場に行って原稿を書く予定であった。仕事場は自宅から車で5〜6分のところにあり、書庫や仕事部屋、それに一部は娘が防音装置の部屋にして、ピアノ教室を開いていた。
朝5時に私は、妻の運転する車で仕事部屋に行き、すぐに原稿を書きはじめた。朝の執筆は頭の冴えている分だけ、原稿の進み具合もいい。つまり捗るのだ。
1時間ほど経っていただろうか、玄関から妻の声がする。「水をもってきて」と叫んでいるようであった。板敷きに伏している。コップに水を入れて運ぶと妻は口に運んだが、動作は鈍く、やがて水も飲まなくなった。声をかけても返事がない。救急車を呼んだ。脳内出血の恐れがあり、緊急に手術が必要という。
近くの消防署の構内にヘリコプターが来て、大学病院に運び手術がおこなわれた。娘たちも駆けつけた。医師の話では1回の「破裂」であれば、生命は保証されるだろうが、2回、3回であるなら死に至るだろうというのであった。手術室でのオペのあと、病室に向かう妻の表情が苦痛のせいか歪んだ。医師は慌ててまた手術室に戻った。
妻は助からなかった。
公にすることなく密葬で済まそうとしたのだが、そうもいかなかった。火葬場の都合なのか1週間も荼毘(だび)に付せないというので、ドライアイス詰めの妻は多くの人と自宅で別れを告げることができた。
葬儀の前日、Nから自筆のファクスが届いた。妻への悼みと私への励ましが切々と綴られている内容だった。
Nの心情が私の人生の支えの一角になっていることを、あらためて思い知った。妻を「友情の最もよき理解者」という字句で語っている。その部分に、私はなんども視線を止めていた。
すすむさんの声が聞こえた。