2023.05.09

写真家であることを断念しかかった橘蓮二を救ってくれたもの

それは演芸であり精進する芸人さんの姿

演芸写真家の橘蓮二さんの最新刊『演芸場で会いましょう』が話題になっている。橘さんは30年近く前、写真家であることを断念しようと思ったことがあるという。しかし、それを救ってくれたのが演芸であり、芸人さんたちの精進する姿だった。愛と感謝に満ちた橘さんの文章をお届けする。

(本記事は『演芸場で会いましょう』内のエッセイを抜粋、独自に再編集したものです)。

心で感じとる噺家──柳家三三

開演前、静かに凪(な)いでいる楽屋には計測することができない“時間”が流れている。柳家三三師匠はその流れの中に埋蔵されている物語の情景に耳を澄まし目を凝らす。言葉では掬(すく)い取れない微細な感情を読み込み、抽出した言葉で紡いだ落語世界は、日常とフィクションの合間に絶妙な均衡を保ちながら、そっと空間に溶け出していく。

撮影:橘蓮二

表現は情報量が多ければ多いほど伝わりづらくなる。語り芸である落語においても同様、言葉数は足すのではなく引くことで際立つ。何を言うかではない、いかに言わないかが重要なのである。自身の落語についてはいっさい語らない。ただひたすらに描写を重ね登場人物の想いに寄り添っていく表現力は人間を鮮やかに浮き彫りにする。

以前、三三師匠が言っていた「演じているというより高座と客席の間にある薄い幕の向こうに見える情景を喋っているだけ」という言葉が今も強く印象に残っている。

ふだんあたりまえだと思っている現実は真実ではないことがある。たとえば今、自分たちが見ているものは目で見ているのではなく脳に映し出されているものであって、実際は蓄積された記憶が補整した映像を見ているに過ぎない。

自分が知っていることがすべてではない。人生は認識されない多くの想像の上に成り立ち、人は知らぬうちに信じたいことを信じ、見たいと思うものだけを見ている。ひるがえって一流の噺家は実体がない風景から登場人物の心象に至るまで、存在感をもって目の前にリアルに再現させることができる。

柳家三三師匠の高座が深く心の奥に響くのは、言葉の感触を確かめながら、生きることを頭ではなく心で感じとることができるからだ。

出囃子(でばやし)が鳴る、美しいお辞儀から三三師匠が一声発する。ほら、落語に出てくるあの人がもう現れた。

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