2023.05.19

皇帝になった実子を毒殺! 亡き夫の息子と再婚? 遊牧王朝の妃たちの凄絶な人生。

鮮卑拓跋・騎馬遊牧民の世界

中国史には、女傑や悪女などと呼ばれる女性がたびたび登場する。史上唯一の女帝・則天武后、唐王朝の傾国・楊貴妃、清末の国母・西太后などだ。遊牧王朝である北魏(386-534)にも、強烈な個性の「王朝の女性たち」がいた。『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』(松下憲一著、講談社選書メチエ)から紹介しよう。

愛人を処刑され逆上、皇帝を毒殺

まずは文明太后(442-490)である。北魏の最盛期とされる孝文帝(在位471-499)の治世の前半期に、摂政として実権を握った女性だ。「文明太后」というのは諡(おくりな)で、姓は馮(ふう)氏、馮太后と呼ぶことも多い。

文明太后はすぐれた統治能力を発揮し、さまざまな政治改革で実績をあげた。たとえば、北魏ではそれまで官僚に給料は支払われていなかったが、給料を支払う仕組み(俸禄制)をきちんと整え、横行していた賄賂や税の横領など、不正の根絶をめざした。

また官僚たちの給料のもととなる税を確保するため、土地を国民に支給して計画的に税収を得る「均田制」を導入。さらに徴税のための戸籍の作成を進めた。

しかしこの文明太后、能力は優れていたが、なかなかクセの強い人物だったらしい。

〈文明太后は、聡明で智謀がある一方で猜疑心が強く、たとえ寵愛をうけた人であっても、ちょっとしたミスで鞭打ちにされた。ただ根に持つようなタイプではなく、再び寵愛をうけて出世する人もいた。しかし自分のことを批判する者は徹底的に弾圧した。なかでも孝文帝の生母の李氏一族は弾圧された。そのため孝文帝は文明太后の晩年まで生母の李氏について具体的に知らされていなかったという。〉『中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史』p.137)

文明太后の陵墓・永固陵。山西省。松下憲一氏撮影

文明太后・馮氏はもとは漢人の生まれだが、幼いとき、北魏に仕えた父が謀反の罪に連座したために、後宮の奴隷となっていた。しかし、叔母が太武帝の側室だったことから目をかけられ、14歳の時に文成帝の皇后となる。そして465年、馮氏が24歳の時、文成帝が病死。

〈北魏では皇帝が崩御すると、3日後に皇帝の衣服や器物を焼き、官僚や后妃たちがみな号泣しながら見送るという儀礼がある。その儀礼の最中、馮氏は叫びながら炎のなかに飛び込み、左右のものに救出され九死に一生を得た。〉(同書p.135)

この年、献文帝が即位すると、皇太后(馮太后)となる。献文帝の母は北魏特有のルール「子貴母死」により死を賜っているので、馮氏と献文帝に血縁関係はないが、制度上の皇太后となったのである。

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