「戦前」とは何だったのか。
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。
神功皇后は北条時宗、豊臣秀吉と並び、たびたび軍歌に登場する。軍歌は広く国民に届き、感情を揺さぶらなければならない。そこに登場するのが見ず知らずの人物だと用をなさない。ということは、当時のひとびとは神功皇后をおおよそ知っていたということになる。
本記事では、近現代史研究者である辻田真佐憲氏が、神功皇后を取っ掛かりに神話と戦意高揚の関係について、くわしくみていく。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
対外戦争の指導者としての神功皇后
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后である。名は気長足姫尊(おきながたらしひめの みこと)という。しばしば神がかりとなり、神託を伝える巫女的な役割も果たしたが、仲哀天皇の死後は、息子の第15代応神天皇が即位するまで、69年にわたって政務を担った。
神功皇后が注目されるのは、その執政中、妊娠中の身ながら、みずから軍隊を率いて朝鮮半島に攻め込んだからだ。
例によって、記紀で神話の内容が微妙に異なるが、以下ではより詳細な『日本書紀』の記述に従おう。
仲哀天皇の治世がはじまって8年め。天皇は、九州南西部の熊襲(くまそ)を征伐するために、筑紫の香椎宮(福岡市の香椎宮がそのあとといわれる)に、神功皇后とともに滞在していた。
このとき、皇后を通じて「自分を祀ったならば、熊襲だけではなく、金銀財宝豊かな新羅もおのずと服従するだろう」との神託が下った。ところが天皇はこれを信じなかったため、翌年急病にかかり崩御してしまった。
そこで皇后は、あらためて神託を受けて、熊襲などを平定し、ついで新羅への出兵を決意した。