「戦前」とは何だったのか。
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。
神功皇后は北条時宗、豊臣秀吉と並び、たびたび軍歌に登場する。軍歌は広く国民に届き、感情を揺さぶらなければならない。そこに登場するのが見ず知らずの人物だと用をなさない。ということは、当時のひとびとは神功皇后をおおよそ知っていたということになる。
本記事では、前編『「神武天皇」より人気があった「戦う皇后」を知っていますか?』にひきつづき、高い人気を誇った神功皇后について、くわしくみていく。
※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。
政府紙幣にも使用された神功皇后
さらに神功皇后は、日本ではじめて政府紙幣に肖像が使用された人物でもあった。1881(明治14)年発行の1円券がそれで、翌年発行の5円券、翌々年発行の10円券も、神功皇后の肖像が使用された(図1)(※外部配信でお読みの方は現代新書の本サイトでご覧ください)。

このいわゆる神功皇后札の肖像を手掛けたのは、明治天皇の御真影にも関わった、イタリア出身の銅版画家キヨッソーネだった。それぞれデザインが微妙に異なっており、最初の1円券はいかにも西洋婦人風だが、5円券、10円券になるにしたがって、日本人らしいふっくらとした丸顔になっている。
キヨッソーネはデザインにあたり、印刷局で働く数名の女性職員をモデルとした。徐々に筆致を現実に合わせていったのだろう。神功皇后の肖像は、1878(明治11)年発行の政府起業公債の100円証書、500円証書、1908(明治41)年発行の5円切手、10円切手にも使用された。日本の切手ではじめて使われた人物肖像は、やはり神功皇后だった。
それだけではない。神功皇后はもっとリアリティーがある存在だった。明治天皇の皇后美子(昭憲皇太后)は海軍好きだったとされ、しばしば単独で軍艦の進水式に臨み、軍艦に乗って海を渡ることもあった。大正時代のことではあるものの、その雄々しい姿が神功皇后に重ねられたこともあった。このように神功皇后は高い知名度を誇った。日清・日露戦争の軍歌でたびたび登場するのも、けっしてふしぎなことではなかった。