2023.05.17

「スマートな技術」「最適化された世界」が、人間を「不感症」にしてしまう…っていったいどういうことだ?

こんなにスマートで大丈夫?

スマートフォン、スマートウォッチ、あるいはスマートシティ……。

いま私たちの生活を、さまざまな「スマートな技術」が取り巻いています。

スマホのアプリをひらけば欲しい情報がすぐさま手に入り、スマートウォッチは自分の健康状態を最適にたもつのに大いに役に立つ。スマートシティは無駄を排除したエネルギー供給や物流を実現する。

「スマートな技術」はこんなふうに、「必要なときに、必要なだけ、必要なもの」を供給してくれる、人間にとってきわめて便利なものであることは間違いありません。

しかし一方で、「スマートさ」あるいは「最適化された世界」に、私たちが微妙な違和感を覚えてしまうのも事実です。ほんとうにこんなにスマートでいいのか? なにかを見逃しているのではないか?

私たちがつい抱いてしまうこうした疑問に正面から取り組んだのが、哲学の研究者で関西外国語大学准教授の戸谷洋志さんの著書『スマートな悪』です。同書は、現代社会をおおいつくそうとする「スマートさ」「最適化」といった思想が、どのような危うさをはらんでいるかを精緻に分析します。

そのなかで、戸谷さんは、「スマートさと不感症」という、きわめて興味深い視点を提出します。その部分をみてみましょう。

〈スマートなものの「賢さ」は、痛みによる感覚の占拠がそうであるように、余計なことを感じたり、考えたりする必要がなくなることである。したがってその賢さは、たとえば、計算速度の速さや、データ容量の大きさとは本質的に関係ない。そうしたスペックがどれだけ高かったとしても、それによって人間の生活から思い煩いを除去するなら、それはスマートなのである〉

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