伊澤理江さんの『黒い海 船は突然、深海へ消えた』が第54回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。本記事では、受賞作のなかから一部を特別公開します。
第58寿和丸。2008年、太平洋上で碇泊中に突如として転覆し、17人もの犠牲者を出す事故を起こした中型漁船の名前である。事故の直前まで平穏な時間を享受していたにも関わらず起きた突然の事故は、しかし調査が不十分なままに調査報告書が出され、原因が分からず「未解決」のまま時が流れた。
なぜ、沈みようがない状況下で悲劇は起こったのか。
調査報告書はなぜ、生存者の声を無視した形で公表されたのか。
ジャーナリストの伊澤理江さんが、この忘れ去られた事件の真相を丹念な取材で描いた『黒い海 船は突然、深海へ消えた』から、事故が起こるまさにその瞬間を描いた、緊迫のシーンをお届けする。
なぜ、沈みようがない状況下で悲劇は起こったのか。
調査報告書はなぜ、生存者の声を無視した形で公表されたのか。
ジャーナリストの伊澤理江さんが、この忘れ去られた事件の真相を丹念な取材で描いた『黒い海 船は突然、深海へ消えた』から、事故が起こるまさにその瞬間を描いた、緊迫のシーンをお届けする。
前編はこちら
無我夢中の脱出劇
豊田と大道に「胴ノ間」でワイヤーの修繕方法を教わっていた新人の新田は、片耳にイヤホンを付け、寝転がってのんびりと洋画を観ていた。
その時、右舷の船首方向から衝撃を受けた。新田は、波が当たったのだと思った。ほんの少し傾き、船がズブズブと沈み始めているように感じた。2~3秒止まったかと思うと、再びゆっくりと傾斜が増した。新田には、大道ら先輩たちのような経験はない。「船の傾きが戻らないのは変だな」という程度の危機感しかなかった。それでも甲板に上がって様子を見ようと思い、起き上がった。ズボンをはく前に、とりあえずという感じで部屋の扉を開ける。そこに通路の大道から大声が飛んできた。
「ひっくり返っから早く上がれ!」

ひっくり返る?
何が何だか分からないまま、新田は階段を駆け上がり、船尾甲板に出た。海が視界に入ると、奇妙な感覚にとらわれた。通常もっと低位にあるはずの海面が異様に高い位置にある。船体の傾きはそれほどでもないのに、海水が今にも船体のへりを越えて流入しそうだった。
いったい何が起きているんだ。
船全体が沈下しているのか。
「フーセンに行け!」
大道がそう叫んだ。左舷前方に漁網用の浮きが積んである。それを目指せというのだ。
新田は漁網の積まれた船尾を回り込み、フーセンを目指して少し傾いたままの甲板を駆けた。気がつくと、甲板上に海水の流入が始まっている。