「絶対にやばい。ただごとじゃない。ひっくり返る」…小さな漁船に起こった「あり得ない事態」

伊澤理江さんの『黒い海 船は突然、深海へ消えた』が第54回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。本記事では、受賞作のなかから一部を特別公開します。

第58寿和丸。2008年、太平洋上で碇泊中に突如として転覆し、17人もの犠牲者を出す事故を起こした中型漁船の名前である。事故の直前まで平穏な時間を享受していたにも関わらず起きた突然の事故は、しかし調査が不十分なままに調査報告書が出され、原因が分からず「未解決」のまま時が流れた。

なぜ、沈みようがない状況下で悲劇は起こったのか。
調査報告書はなぜ、生存者の声を無視した形で公表されたのか。

ジャーナリストの伊澤理江さんが、この忘れ去られた事件の真相を丹念な取材で描いた『黒い海 船は突然、深海へ消えた』から、事故が起こるまさにその瞬間を描いた、緊迫のシーンをお届けする。

その船は、静かな休みを享受していた

2008年6月23日。

太平洋上の第58寿和丸に静かな時間が訪れた。

パラ泊(パラシュート・アンカーを使った漂泊のこと)中の船内では、めいめいがくつろぎ始めていた。朝から仕事を休める日など、そうそうあるものではない。午後も昼寝をしたり、テレビを見たり、誰もが思い思いの休息を楽しむつもりだった。

通信長の斎藤航は食事を終えると、サロンのすぐ隣にある無線室に入った。寝室も兼ねた斎藤の根城だ。パラ泊を始めておよそ2時間後、斎藤は〈パラ泊中。始動まで失礼〉というメールを会社に送っている。船員室に下がった他の乗組員と同じように、そのまま体を休めるつもりだったのだろう。何しろ漁は休みだ。昼間から眠っても何の問題もない。

午前11時半頃、気象庁は「関東海域では南の風が強く、最大18メートルの風が吹く」という海上強風警報を発令していた。