玉音放送の後に起こった「最後の空戦」を戦い抜いた「零戦搭乗員」のあまりに壮絶すぎる半生
中国での戦争(支那事変)が泥沼化し、日本と米英との関係も緊張しつつあった昭和15(1940)年4月、社団法人「日本ニュース映画社」が設立された。これは、昭和13(1938)年に制定され、14(1939)年に施行された「映画法」に基づき、それまで別々にニュース映画を制作していた朝日新聞、大阪毎日新聞、東日大毎国際ニュース、読売新聞、同盟通信各社のニュース映画部門を統合したものである。
日本ニュースは昭和15年6月11日公開の第1号を皮切りに全国の映画館で上映され、昭和20年9月6日公開の第255号で終戦を伝えるまでの終戦の国民に主に戦況を知らせ、戦意を高揚するプロパガンダの役割を果たした。敗戦とともに「日本ニュース映画社」は「(株)日本映画社」と改組され、昭和26(1951)年、ふたたび分社化されるまでニュース映画を制作し続けた。
いま、それらの映像はNHKアーカイブスのWebサイトで誰もが見ることができるが、なかには「名場面」とも呼べるシーンで写っている個人が特定できる映像がかなりある。ここではそんな、ニュース映像に姿を遺した人たちのその後を、数回シリーズで伝えていきたい。

戦況不利のなか、日本軍勝利を報じたニュース
戦争後期、米軍をはじめとする連合軍の侵攻が本格化し、南方の島々がつぎつぎと敵手に落ちて、戦況が圧倒的に日本に不利となった昭和19(1944)年になってもなお、「日本ニュース」は、「大東亜建設譜」(第188号・1月6日)、「必勝攻勢」(第191号・1月26日)など景気の良いニュースを上映している。ただ、なかには、じっさいに日本軍が勝利した戦闘を報じたニュースもあった。
「日本ニュース第194号」(昭和19年2月16日公開)の「南海の激戦場 ニューギニア・ソロモンの激闘」である。

このニュースフィルムは、昭和19年1月17日、日本陸海軍の南太平洋の拠点だったニューブリテン島ラバウル基地で、敵機を邀撃(ようげき)する第二〇四海軍航空隊(二〇四空)の零戦隊を撮影したものだ。この日、ラバウルには、ソロモン諸島の米軍占領地を発進した米戦闘機(チャンスボートF4Uコルセア、グラマンF6Fヘルキャット、ロッキードP-38ライトニング)70機、急降下爆撃機(ダグラスSBDドーントレス)29機、攻撃機(グラマンTBFアベンジャー)18機の計117機が来襲、ようやく実用化されたレーダーでそれを察知した零戦隊は、従来のラバウル東飛行場にかわって新設されたラバウル北(ケラバット)飛行場から二〇四空43機、ラバウル郊外のトベラ飛行場から第二五三海軍航空隊(二五三空)36機の零戦が発進した。