それでも時代は変化する
従来なら、BBC放送やカウワン・オカモト告発は一過性で済んだかも知れない。ジャニーズ事務所が持つ数字(視聴率、販売部数、売上高)には勝てないと、報じないことが習い性となってメディアから抵抗する気力を奪っていた。これに関してはネットなどで展開される「マスゴミ批判」は正しい。
だが、メディアの感覚が鈍化するなか、政治的な正当性を求めるポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)が浸透し、人種、性別、宗教、信条などで差別されない環境が国家に求められるようになった。リベラル派が推進するポリコレには保守派からの批判も多く、米ではトランプ前大統領の登場といった分断も生んだが、「差別のない環境」という欧米流の倫理観に抗するのは難しく、法整備は進んでいった。
政治的なポリコレ、労働環境から派生したパワハラ防止法、社会環境面でのLGBT理解増進法は、そうした文脈のなか、「時代の変化」と捉えることができよう。
もちろん建前に依拠するリベラル派がもたらす変化は、保守派にとっては受け入れがたい。男女の異性愛で成り立つ家庭の秩序を重んじて、その秩序を乱す同性婚を主張するようなLGBTは認めない。宗教的な価値観を大切にして「メリークリスマス」を「ハッピーホリディ」と言い換えねばならないポリコレを嫌悪する。
米国ほどではなくとも日本でもリベラルと保守の分断は進み、折れ合うのは容易ではない。ただ、時代はやはり変化する。
日本で差別と言えば被差別部落の長い歴史がある。全国水平社の創立から100年の歴史を刻む部落解放同盟は、同和対策事業特別措置法による住環境整備と、差別糾弾闘争の長い歴史を経て、差別環境の改善を勝ち取ることが出来た。部落差別をしてはならないのは普遍的価値観となった。性的少数者に対する差別も、慣習や慣例、伝統的価値観のカベを乗り越えてやがて解消するだろう。
猿之助報道とそこから発生した事件に関する神経質な展開は、「書かれざるもの」の背景と正体を教える結果となった。同様にジャニー喜多川問題は、「書くべきもの」を書かなかったメディアの罪を露呈した。
そういう意味で猿之助とジャニー喜多川の両事件は、複雑な背景と要素を抱えたLGBT時代の「メディアの在り方」を問うものになりそうだ。