2023.05.26

勝手に購入した100億円の債券を「1日で売却しろ」…追い込まれた証券マンが出した「過去1番」の損失

森 将人 プロフィール

「そうです」
「今なら2円下くらいですかね」

おそらく山口の顧客に伝えた値段が、そのまま外資系証券に伝わっているのだろう。3時直前の時間に電話してきたのも、判断する余裕のないぼくのことを計算したうえでのことだった。

ぼくが取引しようとすると、業者間市場の取引を表示するチャットが点灯した。1円下の買い値だった。相手の名前は見えないが、どこかの証券会社だろう。金額は相談に応じるという。100億でも買えるのか? ぼくが返信すると、問題ないと返ってきた。

ぼくは受話器を置くと、決めだ、とメッセージを送ってチケットを切った。14時55分。今マーケットにある最高の価格に違いない。損失は1億円だ。一日での損失としては、自己のワースト記録に近かった。

誰が敵なのか味方なのか

「どうにか売れました」

ぼくは取引を入力して、木村に報告した。

「最低限の約束は守れたな。ひとまず合格や。必要のない損失を被って、ずいぶん高い授業料になったけどな」
「もう二度とこんなディールはしたくないです」
「社債はもらうが、利益はいらんわ。出世返しでええからとっとけ」
「はい?」
「さっきの100億円や」
「あの買い手って……」
「鈍い奴やだな。俺が買うてやったんや。ちゃんと部長の許可を取ってな」
「そうなんですか?」
「稼ぎたいなら、ルール守って堂々と稼げ。もう二度と助けてやらんで。ラーメンだけ奢ってもらおうか」
「俺も大盛りで。野菜とニンニクも入れるかな」

 

振り向くと、山口が笑っていた。

トレーディングは、カードゲームに似ている。先輩が残したこの言葉に、ぼくは相手のプレーヤーが示す手がかりから目を逸らすなという意味を読みとっていた。マーケットは心理戦だ。誰がどれだけの情報を持ち、どんな手を打つか予想しながら考えるしかない。

その教訓に間違いはないが、今考えれば立場や人間性だけで相手を決めてかかるなという忠告も含まれていたのではないかと思うことがある。すべてのプレーヤーは、手持ちのカードを通じて世のなかを見ている。同じゲームでも、戦う相手次第で先行きは大きく変わる。

顧客や投資家に教えられることもあれば、他証券のライバルに助けてもらうこともある。頼りにしていた先輩が逆の動きをすることもあれば、部下に反旗を翻されることもある。

思えばこの25年間、ぼくは誰が敵か味方かもわからずに100億円のカードゲームをしていたのかもしれない。

SPONSORED