爆笑!ああ、体育会の青春 先輩から人生の「理不尽」を学んだ日々
明大ラグビー部・PL学園野球部ほか監督や部長がいなくなると始まる先輩たちの愛のムチ。今日は来そうだな。嫌な予感はたいてい的中する。どこまでもいつまでも終わらない「絞り」。あの頃に比べれば会社なんて屁でもない。先輩に感謝!
死ぬかと思った
「なにしろ、高校生なのに授業に全く出ない。多摩川沿いにある梅木(恒明)監督の家に全員寝泊まりして、河川敷で朝の5時から練習。その後『学校行くぞ』って言われて、10km離れた学校まで走っていく。着いたら朝礼だけ出て『はい今日は八幡山!』って、また八幡山にある明治大学のグラウンドへ10km走る。これが日常でしたからね。
東海大学であった練習試合では、45km離れたグラウンドまで走りました。朝出発して、着いたのが午後3時半。道中、水の入ったヤカンをずっと持って走ってる奴がいて『俺、もうダメだぁ』なんて言ってる。水なんか、どこにでもあるのに(笑)。7時間走りっぱなしで試合なんて、さすがに負けますよ」

日本ラグビー界を牽引してきた松尾雄治氏は、目黒高校、明治大学、新日鐵釜石とラグビー一筋に生きた生粋のラガーマンだ。その松尾氏でさえ「死ぬかと思った」と話す'70年代・黄金期の目黒高校ラグビー部は、壮絶の一語に尽きる。
「怪我をしても、病院に行ったらすぐに出てきて、ギプスをしたまま片足で走る。何しろ監督が『戸塚ヨットスクールは甘い!』って言ってましたから。ついていけない奴は3日で逃げます。合宿もすごくて、大分県にある監督の実家近くの自衛隊基地に、全員2ヵ月泊まりこんで練習です。基地から線路を辿って逃げた奴もいました。それでも誰も文句は言えない。子どもを預けるとき、親が『何があっても学校・監督の責任ではない』という誓約書を提出していますから」
最も恐ろしいのが、タックルの練習だ。人間同士でやると靱帯断裂など怪我の恐れがあるため、練習時は普通タックルバッグを使う。しかし目黒高校はいつもガチンコだった。
「(人間相手の)生タックルばかり、しかもわざと砂利道の上で練習させる。全身血まみれですよ。まわりの生徒がいつも『大丈夫か』と気を遣ってくれた。
高校生なのに一日7~8時間ラグビーですからね。夜中の1時から、先生の車を多摩川の河川敷に入れて、ヘッドライトを頼りに練習したこともあった。風呂にも入らず泥だらけで寝て、朝起きて膝を曲げたらバリバリ泥が剥げる。布団も血だらけ。リンパ腺はいつも腫れていました」
毎日の練習がこれだけハードだと、もはや試合の日など息抜きにすぎない。