ピッチャーはプライドの高い生き物である。ゲームのトリを飾るクローザーとなれば、なおさらだ。長きにわたってチームの終盤を支えてきたのはオレだとの自負が頭をもたげる。
だが、想定外の修羅場で感傷に浸っているヒマはない。いつものように岩瀬は表情を消し、冷静に自らに言い聞かせた。
「とにかく3人で終わらそう」
先頭の金子誠に対してはスライダーで空振り三振を奪った。続く代打の高橋信二(現オリックス)には、これまたスライダーでレフトフライ、そして27人目の小谷野栄一はストレートでセカンドゴロに打ち取った。
背番号の数字同様、わずか13球で3つのアウトを奪った。山井と二人で完全試合を達成した。タイトロープを渡り切った先に、中日の53年ぶりの日本一があった。
言葉少なに岩瀬は語る。
「日本一になった、やった!というよりもホッとしたというのが正直な気持ちでしたね」後日、岩瀬の顔を見るなり、落合はボソッとつぶやいた。
「オレが批判されるのはいい。それよりも、オマエが3人で抑えることの難しさを、なんで分かってくれないんだろうな」
その一言で岩瀬は救われた思いがした。背水の13球は幕引き屋の意地の結晶だった。
愛知県西尾市で生まれた岩瀬は高校(西尾東高)時代から西三河では評判のサウスポーだった。
しかし'76年創立の歴史の浅い県立校ゆえ、甲子園へのハードルは高かった。
高校時代の監督・渡会芳久には「とにかく真面目な子だった」との印象が強い。
「目立つタイプではなかったが、野球に取り組む姿勢が素晴らしかった。こちらが黙っていても、よく練習するし、黙々と走っていた。私のほうから注意したり、怒った記憶はありません」
その一方で、負けず嫌いな一面もあった。
「打っても投げても岩瀬が中心。しかし、彼ひとりの力ではなかなか勝てない。ある試合、三塁に進んだ岩瀬は何と強引に本盗を試みた。アウトにこそなりましたが、そこまでしても勝ちたかったのでしょう。
ピッチャーとしては3年夏の県大会2回戦でノーヒットノーランを達成しています。バッターがバスターで揺さぶるなど、いろいろと対策を練ってきても、全く相手にしませんでした」