2012.03.24

二宮清純レポート
セーブ王は逃げない岩瀬仁紀中日ドラゴンズ・投手「クローザーの心得」

週刊現代 プロフィール

 卒業後は地元の愛知大へ。渡会によれば、東京の強豪校からの誘いもあったが、ひとり息子ということもあって地元の大学を選んだという。

伝家の宝刀

 ピッチングも良かったが、バッティングはもっと目立っていた。入部するなり、外野のレギュラーになった。2年の夏には外野手として日米大学野球の日本代表メンバーに選出され、3年秋には中南米遠征のメンバーにも加わった。同世代の左バッターには稲葉篤紀(法大-ヤクルト-日本ハム)や高橋由伸(慶大-巨人)らがいた。

 大学時代の監督・桜井智章には次のような印象が残っている。

「打撃は引っ張り専門で初球からどんどん振る。ボールを待つなんてとんでもないというスタイル。当時は相手から警戒され、ボール球を振らされることが多かった」

 愛知では向かうところ敵なしの強打者が殊勝な面持ちで桜井にこう告げたのは、中南米遠征から帰国した直後のことだった。

「バッターでは勝てません。ピッチャーをやらせてください」

 21歳の岩瀬に、いったいどんな心境の変化があったのか。桜井は次のように推察する。

「岩瀬本人もプロ志望でしたが、代表で集まってきた選手のバッティングを見て、〝こういう人間がプロに行くんだ〟と分かったんじゃないでしょうか。

 それからですよ、バッティングのスタイルが変わったのは。ボール球を振らず、逆らわないバッティングをするようになりました。外野を守っていても、単に強肩を見せつけるだけでなく、捕球しやすいボールを返すようになりました。一流選手と一緒に行動したことで野球観が大きく変わったんだろうと思います」

 3年春には愛知学院大戦で1試合3本塁打を記録した。1本目がレフト、2本目がセンター、3本目がライト。この頃には広角に打ち分ける技術も習得していた。

 4年時はエースで4番。通算124安打は愛知大学リーグ史上2位。リーグ記録に、あと1本届かなかった。

「記録を塗り替えていたら、そのままバッターで勝負していたかもしれません」

 だが、記録を破れなかったことが、結果的には幸いした。岩瀬はバットを置き、以後はピッチャー一本で行く覚悟を固める。

 社会人野球は、これまた地元のNTT東海へ。ここで岩瀬は運命的な出会いを果たす。

 先輩に森昌彦というアトランタ五輪にも出場した社会人球界を代表する好投手がいた。森の武器はバッターをして「振りに行ったら急に曲がる」と言わしめた高速スライダー。この伝家の宝刀を森は後輩に伝授したのだ。

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