2012.03.21

堤堯 第3回「いよいよ話題は救国の政治家・鈴木貫太郎へ・・・でも、その前に賭けゴルフの名勝負を一席」

島地 勝彦 プロフィール

 こうなると軍部はますますソ連頼みとなる。ポツダム宣言を受けた一回目の御前会議でも、なおソ連に仲介を念押ししろと軍部は貫太郎にせまる。せまったところで、ソ連もアメリカも暖簾に腕押しだ。ソ連はその間、参戦の準備を進める。アメリカは日本が「国体護持(天皇制維持)」に一本化した条件をなおも呑まない。呑まないことを理由に原爆を都市に実験して、いずれは対峙する共産圏に誇示したい。哀れ日本はベイビー(あやされる)だけだ

 かくして原爆投下、ソ連参戦となる。このソ連参戦が軍部の戦意を削いだことは想像に難くない。徳富蘇峰も、二発の原爆よりもソ連参戦が廟堂をして降伏やむなしに向かわせたとしている。ソ連参戦を聞いて、貫太郎は「いよいよ来るべきものが来ましたね」

 これを機に貫太郎は一気に聖断の演出へと不眠不休で向かう。阿南が「総理、あと2日、待って下さい。陸軍をまとめますから」というが、「いや、この機を逃せば、日本は亡びます」と受け付けない。あとは一瀉千里だ。

 ここでこの欄をみる読者に、是非にも知っておいてもらいたいことがある。ポツダム宣言を通告されて、貫太郎がこれを「黙殺する」と公言したことがヒロシマ、ナガサキ、ソ連参戦を招いたとする通説のウソだ。

 貫太郎は「黙殺」という言葉は使っていない。本当は「ノーコメント」と言いたかった。これなら「いまは何とも言えない。しばし考える」という意味になる。つまりは音無しの構えを上策とした。ところが血気に逸る軍部の少壮将校らが、「ポツダム宣言を拒絶せよ」と貫太郎にせまった。半日の猶予も与えない。

 貫太郎の書記官長をつとめた迫水久常によれば、当時は英語禁制で、「ノーコメント」が使えない。仕様がないから「重要視しない」という言葉を使った。記者会見を終えて引き下がる貫太郎を記者団が追いかけ、「重要視しないとはどういう意味か」と迫り、貫太郎は「ノーコメント」と言ってこれを振り切った。これは長谷川才次(のち共同通信社長)の回想だ。

 この「ノーコメント」が一人歩きする。これを読売と毎日は「笑止」と言い換え、朝日は「黙殺」の見出しを掲げて報じた。同盟通信は「ignore(無視)」と訳して発信し、欧米のメディアはこれをグレードアップして「reject(拒否)」と報じた。共に日本の代表的新聞(と目された)朝日が「黙殺」という最もあざとい言葉に言い換えたことが作用したというしかない。

 以上の経緯からしてヒロシマ、ナガサキ、ソ連参戦を招いたのは貫太郎の「黙殺」のひと言だとして、一切を貫太郎の責めに帰すのはどう見ても間違っている。むしろ罪は「黙殺」と言い換えて報じた新聞にあると思える。なのにこの新聞はその後、貫太郎を「愚図の宰相」として最も批判した。自らの罪障感を塗りつぶす了見としか思えない。貫太郎にすれば、あらぬ濡れ衣を着せられて、さぞかし腹中に怒りを宿したと思うよ。でも彼はひと言の弁解もせず、責任を他に転嫁することもなかった。自伝に「あのひと言は余の遺憾とするところ」と記すだけだ。百年後の史家に評価を委ねる気構えなんだね。

 歴史は記録と記録をつき合わせて、想像力を駆使して往時の心事をまさぐるしかない。歴史は社会科学や人文科学に分類されるが、科学じゃない、文学に属する。人間が寄ってたかってするドラマだ。終戦時の日米ソの関係も、その記録は60数年経ってなお、「国家的安全保障」を理由にブラックアウトされている部分が多い。まだまだ本当のところは解らないんだよ。

 しかし民衆は本能で貫太郎の終戦の偉業を知っている。関宿でおこなわれた彼の葬儀に、延々数キロの行列ができた。ちなみに貫太郎は死の床で、最後に洩らした言葉が「永遠の平和、永遠の平和」とうわごとのごとくにつぶやいたという。繰り返すが、彼こそ不世出の宰相だ。

 貫太郎について語ればキリがない。ここらでやめるけど、「昭和の三傑」の一番目は鈴木貫太郎というわけよ。

シマジ 二番目が幣原喜重郎ですか。