京都吉兆三代目、徳岡邦夫さんに聞く【第2回】
「進学校」を中退しミュージシャンを目指した、禅寺での修行が料理人への道を開いた

第1回はこちらをご覧ください。
運動神経抜群! でも勉強は…
安倍: 徳岡さんの幼い頃のエピソードをもう少しうかがえますか?
徳岡: 幼い頃の、僕の遊び場は厨房でした。厨房でゆでダコに串を刺して遊んで叱られたり、厨房の若い人たちと一緒に遊んで、ふざけて、みかん箱の中に隠れ、そのまま中で寝てしまい、行方不明だと大騒ぎになったり…。
厨房の人たちが寝泊りをする「部屋」で4つ並んだ2段別ベッドの真ん中に立たされ、「これくらいうけとめられないと男じゃない!」と言われ、上から勢いよく枕を投げられたり…(笑)。厨房の人たちに遊んでもらっていました。
安倍: 「料理人になろう」と幼い頃から思っていたのですか?
徳岡: 思っていなかったです。幼い頃は、友達が多く、ほとんど勉強もせず、遊んでいました。繁華街で補導員につかまったりしながら…(笑)
安倍: やんちゃな少年だったんですね。
徳岡: スポーツが好きで、ソフトボールと水泳をしていました。ソフトボールは4番でピッチャー。いわゆる「ヒーロー」でした。水泳は小学3年生まで泳ぐことができず、小4で泳げるようになったのですが、小5の時には、西日本の水泳大会で11位になりました。ちょっと微妙な順位ではありますが(笑)
安倍: 運動神経もよかったんですね。
徳岡: 運動神経はよかったのですが、勉強の方は全然だめで…中学3年生のはじめの家庭訪問で、担任の先生から「このままだとどこの高校にもいけない」と言われてしまったんです。
安倍: その時、ご家族はなんと?
徳岡: 母親はパニックになりましたね。そして「勉強しなさい!」という話になって…。
当時、灘高校出身で東大を卒業し、飛行機のライセンスも持っているのに、なぜか吉兆で修業をしている青年がいて。彼が通っていた、関西で有名な進学塾「入江塾」を紹介してもらい、入塾しました。灘高校への進学者が多い進学塾でしたが、僕は学力が全然足りなかったので、中学3年生ながら、中1の一番下のクラスに入れられました(笑)
安倍: 中学3年生で中学1年生と一緒に勉強をしていたのですね。
徳岡: 中学生でも1年生と3年生は外見もまったく違って、中1は子供、中3はおっさんぽいじゃないですか。僕は「子供の中にいるおっさん」(笑)、しかも当時はヤンキーだったので、はじめはクラスで怖がられていました。
でも、そのうち成績をみて、「あいつバカじゃん」と見下されるようになった(笑)。
安倍: 屈辱的ですね。
徳岡: そういう環境の中、恥ずかしさと悔しさから「もうやるしかない」と思い、学校も行かず、塾だけに専念して勉強に励みました。
安倍: 学校に行かなかったんですか?
徳岡: 本当は良くないのですが、もうどうしようもないので学校を休み、塾に泊まり込みで勉強していました。夏休みも避暑地にこもって一日中、勉強!
僕は基本的に、負けず嫌いなので、環境のおかげで勉強するようになりました。夏休みの終わりには、やっと中学2年生の上のレベルにまで上がって、試験で100点もとれるようになったんです。

安倍: 短期間で中1から中2まで! 頑張りましたね。
徳岡: はい。合宿中、寮にはおやつがなかったので、甘い物が欲しくなってくるんです。100点をとると「パイナップルの缶詰」がごほうびとしてもらえて、それを食べるのが、楽しみでした。
安倍: アメとムチです(笑)。
徳岡: 勉強した結果、岡山県にある有数の進学校に合格しましたが、中退してしまいました。
安倍: 中退されたんですか。
徳岡: そうなんです。その高校は進学率100%を誇る進学校で、頻繁に試験があるのですが、「80点以下は点数じゃない」と言われ、5点下がるごとにビンタ!
安倍: スパルタですね。
徳岡: 全寮制で、全科目90分授業。語学は英語の他、1年生はドイツ語、2年生はフランス語、3年生は選択授業があるんです。
さすがに僕はノイローゼになって、「もういやだ。普通の生活に戻りたい」と寮を飛び出し、家に逃げ帰ってきました。そして、16歳で京都吉兆の調理場に入りました。
安倍: それから、徳岡さんの吉兆での料理人生活がスタートするんですね?
徳岡: そう思うでしょ? ところが、違うんです。
料理の技術を習得するのは好きで面白かったのですが、高校に通っている友達と休みも合わなかったりと、毎日がつまらなくなってしまったんです。結局「高校にもう一度いこう」と決め、近所の高校に入学しました。