2012.05.26
# 雑誌

「創業100年企業の血脈」
第五回 日活「倒産危機を救った元ホテルマン社長の奇策」

フライデー プロフィール
女優陣の「日活パール・ライン」。左から中原早苗、笹森礼子、浅丘ルリ子、清水まゆみ、吉永小百合、芦川いづみ

 しかし、洋画による好調も長くは続かない。1950(昭和25)年にGHQが外国映画の配給を1社に限定する原則を撤廃し、CMPEは解散。米国の映画会社9社が直接配給できるようになり、日活は洋画を独占することができなくなってしまうのである。

 こうした状況を打開するには、やはり撮影所を整備し独自の映画を製作しなければならないと、堀は考える。そこで堀が製作現場の指揮を託したのが、1929(昭和4)年に日活へ入社し製作畑で働いてきた、同い年の江守だ。

〈私は戦時中に失った映画製作機構の再現を図りたいと考え、江守常務に命じて秘かに敷地をさがさせていたのであるが、たまたま調布市(中略)に適当な地所があったので、それを買い求め、アメリカ・スタイルの撮影所の建設にとりかかったのである。それは昭和28年9月のことであった〉(『私が入社してから』)

昭和の数々の名作が製作された、調布の撮影所。現在でも、CMやテレビドラマなどの撮影が行われている

 撮影所を建てても、戦時中の統合で製作部門を手放した日活に、俳優、監督、スタッフは残っていない。堀と江守は奇策を考える。『松竹』と契約を結んでいた三國連太郎や『東宝』の森繁久彌などの有名俳優やスタッフを、引き抜こうとしたのだ。だがこうした日活の強引な方法は、業界で猛烈な反発に晒された。当時の状況を、堀は次のように記している。

〈撮影を開始することにはしたが、既設の映画製作会社5社(松竹・東宝・大映・東映・新東宝)が日活を目標に五社協定なるものを作り、俳優、監督の日活への出演を一切禁止したのである。(中略)主演俳優からバイプレイヤーまでを揃えるということは容易な業ではなかった。止むを得ず新国劇一座を買って映画を撮ったり、寄せ集めの俳優をもって映画を作ったりしていたのであるからロクな写真ができる筈がなく〉(『私が入社してから』)

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