2012.08.22

[パラリンピック]
三木拓也(車いすテニス)「金メダリストに導かれたロンドンへの挑戦」

スポーツコミュニケーションズ

初めての自己主張

「3、4年やれば、世界のトップに行く可能性は十分にあるな」。その日、丸山は1本のビデオを観ていた。そこに映し出されていたプレーヤーに将来への可能性を感じていた。

「ある日、国枝が『コーチ、若手に面白い選手がいるんですよ』と、神戸オープンのビデオを持ってきたんです。観てみると、全体的に荒削りでしたし、動きも遅かった。でも、国枝に聞いたら、車いすテニスを始めてまだ1年だと言うんです。その割には、よくラケットも振れていましたし、ボールさばきにはトレーニングは必要としても、すでに完成されたものは持っていると感じました。ですから、現時点でチェアワークを十二分に練習しておくことで、これはモノになるなという予測がつきました」

 国枝から三木自身、ロンドンを目指したいと思っているという旨を聞いた丸山は、「本人が本気なら、ここに連れてきてトレーニングしたらいいよ」と、自らがコーチを務めるテニストレーニングセンター(TTC)への移転を促した。ところが、話はすんなりとはいかなかった。母親は賛成したものの、通っていた神戸の大学を休学してまで、テニスのために単身で千葉へ移り住むという話に、父親が大反対したのだ。それは息子の将来を案じてのものだったことは容易に想像ができる。

 だが、三木は諦めることができなかった。丸山もまた、できることなら一緒に世界を目指したいと思っていた。しかし、両親の支えなくして成功はない。そこで丸山は、両親と話し合いの場をもつことにした。「息子さんの夢がかなうよう、私が今までに学んできた技術や経験の全てを出し尽くして共に成長していきます」。丸山の真摯な言葉と態度に、母・直実は厚い信頼の気持ちを寄せた。

「丸山コーチは、国枝選手をどのように育てられたかを語ってくれました。そのお話を聞いて、丸山コーチがテニス以外の部分まで考えておられ、選手を一人の人間としてきちんと育てていらっしゃる方だということがよくわかったんです。その熱意と誠意に『この人になら、息子を任せられる』と思いました」

 だが結局、その場で父親の同意を得ることはできなかった。自宅に帰ってからも、親子、そして夫婦での話し合いが続いた。三木は「どうしてもロンドンに行きたい」と正直な気持ちをぶつけ続けた。その気持ちを大切にしたいと思う母親は、「本人の人生なんだから、親がその可能性をつぶしてはいけない」と父親への説得を試みた。しかし、父親は「親は子どもを守る義務がある。まだ20歳で、判断力に乏しい子どもに助言するのは当然だ」と頑としてきかなかった。

 どちらが正しくて、どちらが間違っていたわけではない。双方ともに、息子を大事に思っているが故の意見の食い違いだった。しかし、だからこそ、どこまでも平行線を辿り、交わる兆しは全く見えてこなかった。結局、最終的に歩み寄ったのは、父親の方だった。父親の気持ちを変えたのは、母親のひと言だった。「どうしてもダメと言うのなら、私一人で拓也を支えます」。この言葉に父親は「期限はロンドンパラリンピックまで。それが終わったら、必ず復学すること」という条件付きで承諾したのだった。

 一つ間違えば、家族がバラバラになる可能性もあっただろう。それでも母親が息子を応援する姿勢を崩さなかったのは、なぜか。母・直実はその理由を次のように語ってくれた。

「拓也が高校3年の時、骨肉腫という病気が見つかったんです。担当医の先生に言われたのは『5年後の生存率は7割』。もちろん、絶対に治ると信じようとは思いましたよ。でも、やっぱり覚悟もしたんです。その拓也が『パラリンピックを目指したい』と言ってきた。もう、とにかく全力で応援しようと思いましたよ。自分が一番のサポーターになろうと。それに拓也はもともと強く自己主張するタイプではなかったんです。親が『こうした方がいいんじゃない?』という助言を素直に受け入れるという感じでした。ところが、今回ばかりは違いました。どんなに父親に反対されても、絶対に諦めなかった。こんなことは初めてです。それほど本気なんだなと。ですから、なおさら応援したいと思ったんです」

 一方、三木本人は当時のことをこんなふうに語っている。「両親はどちらも僕に対して『なんとかしてやりたい』という気持ちがあったと思います。それが父は心配の方向に行き、母は応援の方に行っただけなんです。でも、両親が対極的な意見で僕にとっては良かったです。どちらもすんなりと賛成していたら、安易な考えで千葉に来てしまったと思います。父が反対してくれたからこそ、自分自身の意思をしっかり固めて、気持ちを伝えることができたんです。でも、それができたのは賛成してくれた母がいたからです。両親ともに大反対だったら、さすがに押し切るのは難しくなっていたでしょうから。だから、両親には本当に感謝しているんです」。

 人生で初めて親の反対を押し切ってまで我を貫き通した三木は、その年の6月、大学に休学届を提出し、千葉県柏市に引っ越した。

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