もう一つの方角は、数学教材としての経済学だった。ぼくは当時、中学生に数学を面白く教えるための題材を探し求めていた。物理や化学は、設定を簡易化すると法則としてウソになってしまうため、数学教材には向かなかった。
こういう言い方もなんだが、それに比べて経済学は、いいかげんな設定でかまわないのが好都合だった。ぼくは、数学の教材を作る資料として経済学の教科書を買い集めていた。
そんな中、ふとしたきっかけで、「本物の経済学」と出会うこととなった。市民講座のゼミナールで経済学者・宇沢弘文先生の教えを受けることとなったのである。受講した動機には、経済学への関心もあるにはあったが、野次馬的なもののほうが大きかった。
実は、宇沢先生の息子さんと数学科の同期だった関係で、以前から宇沢先生の名声は耳にしていたのだ。そんな不純な気持ちだったにもかかわらず、宇沢先生の講義はぼくに人生最大級の衝撃を与えることとなった。
先生は、終戦直後に数学科の研究員のポストにいたが、混乱する日本の中で自分の身のあり方に疑問を持ち、数学を捨てて経済学の研究に向かった。アメリカに渡って経済学を研究し、大きな業績をあげた。しかし、アメリカがベトナム戦争に突入すると同時に、数学的な手法で経済学を構築することへの疑念が強くなり、アメリカでのポストを捨てて帰国する決意をした。
帰国後の先生は、それまでの経済学の数学的な手法から完全に脱皮し、日常言語によって経済学的な主張を行う「制度学派」の方法論に転換することになった。ぼくが宇沢先生の講義を受けたのは、このような転換後のことである。
ぼくは、先生の教えに大きなカルチャーショックを受けた。環境の問題も、人権の問題も、文化の問題も、貧困の問題も、すべて経済学の文脈で考えることができる、ということは大きな驚きだった。
宇沢先生は、総じて伝統的な経済学の方法論に批判的だった。そして、伝統的な経済学がはまり込んでいる閉塞感から脱出するため、「社会的共通資本の理論」という新しい枠組みを提唱された。