ぼくは、宇沢先生が経済社会のあるべき姿を模索するために真摯に取り組んでおられる姿勢に強く共感し、もっときちんと、もっと本格的に経済学を勉強したい、と思うようになった。その思いがあまって、社会人のまま経済学部の大学院を受験し大学院生となってしまったのだ。
大学院での経済学の勉強は、ぼくに二つの心境の変化をもたらした。第一の心境の変化は、「経済学は数学の応用分野として、とてつもなく面白いと感じるようになった」ということ。そして第二は、「経済学の現実説明能力はがっかりするほど乏しいと実感するようになった」ということだった。
第一の心境の変化は、ぼくに数学での再生の息吹を吹き込んでくれた。数学科では勉強についていけなかったぼくだが、経済学での数学にはなじむことができた。それどころか、経済学で使われる抽象数学が、以前とはうってかわって意味あるものに思えるようになった。
経済学では、人々の「欲望」や「思惑」や「怖れ」などを数式を使って表現する。ぼくは、数学のそういう力にわくわくした。ぼくの中で数学が活き活きした何かに生まれ変わったように思えた。
その一方で、「現実解析の科学」としての経済学は、期待はずれだと感じるようになった。経済学は、物理学が物質の運動を予言するようには、人間の行動を言い当てることができない。だから、現状の経済学では、不況や格差などの社会問題を解決することは到底不可能だと失望することとなった。

この二つの相反する心境の変化は、ある意味では表裏の関係にあるとも言える。経済学が数学的に面白いのは、経済現象の仕組みを既存の抽象数学にはめこんでいるからだ。それでぼくは、一度は落ちこぼれた抽象数学に別の道筋からトライすることが可能となった。
しかし、そのように既存の数学に安易に当てはめることで、経済学は真理性を失い、荒唐無稽化してしまっているとも言えるから皮肉なのだ。
こんなふうに、ぼくの経済学者としての足場はグラグラと安定せず、学会の中では「浮いてしまっている」のである。