2012.11.12

[サッカー]
田崎健太「里内猛が描く日本の未来図Vol.1」

~ジーコ、オシム、関塚を支えたフィジコ~
スポーツコミュニケーションズ

27歳でコーチ業へ

 里内猛は、1957年1月に滋賀県の守山市で生まれた。小学生の時から遊びでボールを蹴ったりしていた。しかし、現在のようにクラブチームは存在しておらず、本格的にサッカーをするようになったのは、地元の守山中学校に進学してからのことだ。中学1年時の担任教師がサッカー部の顧問だった。教員チームの選手でもあった彼に、強く誘われたのだ。
  始めてみると、サッカーの楽しさに取り憑かれた。早朝から授業の前に練習、昼休みも練習、放課後は夜遅くまでボールを追いかけるようになった。中学3年時には、県大会で優勝、近畿大会でも3位に入った。

 高校は、滋賀県の強豪校である甲賀高校(現・水口高校)に進学し、全国高校総体、国民体育大会、全国高校サッカー選手権に同県代表として出場した。大阪経済大学に進んでもサッカーを続けた。だが、当時の関西大学リーグは、大阪商業大学や同志社大学が強く、目立った成績は残せていない。4年の時に関西学生選抜に選ばれ、関東大学選抜と試合をしたことが、大学時代の最大の勲章である。

 大学卒業後は住友金属の子会社に就職し、住友金属蹴球団(現鹿島)の一員となった。当時、住友金属は日本サッカーリーグ(JSL)2部に所属していた。里内の仕事は輸送関係で、午後2時まで働いた後にサッカーの練習が始まった。
  住友金属蹴球団の選手は、住友金属の社員と、里内のように子会社の社員の2種類に分かれていた。里内はサッカー選手として入社したとはいえ、彼の立場はサッカーはあくまでも仕事の“おまけ”だった。社員と比べると待遇に差はあるにしても、会社に残りたければ早くサッカーを辞めて仕事に専念しなければならないというのが、社内の常識だった。里内はサッカーと離れたくないと感じていたが、将来も見えなかった。 

 27才で現役を退き、コーチに就任した。コーチと言っても、ライセンスがある訳ではなかった。年齢を重ねた選手が、年功序列でコーチになっていくに過ぎなかった。後輩に押し出されるように選手からコーチになり、いずれ未練を抱えたままサッカーから離れていく――それが、凡庸な社会人サッカー選手の宿命だった。ただ、里内はいい時代に居合わせた。JSLはプロ化を模索していた。そのため、里内はジーコと出会うことになったのだ。

(つづく)

<田崎健太(たざき けんた)プロフィール>
ノンフィクション作家。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、小学館に勤務。2000年より退社して、文筆業に入る。『此処ではな い何処かへ 広山望の挑戦』 (幻冬舎)、『W杯に群がる男達-巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)など著書多数。最新刊は、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社 2011年12 月2日発売)。早稲田大学講師として『スポーツジャーナリズム論』を担当。早稲田大学スポーツ産業研究所 招聘研究員。携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。

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