2013.01.28

第1部プロ野球のドラフト1位たちが告白「これで終わった」自分の心が折れた瞬間

有名スポーツ選手たちの苦悩と悔恨

 桑田、松坂など例外はあるが、甲子園優勝投手で大成した者はほとんどいない。誰もが認める才能の持ち主が、花を咲かせられないのはなぜなのか。失意のアスリートたちが口にしたのは「心」だった。

なぜ与四球がゼロなのか

「高校野球史上、最も美しい」と絶賛されたオーバースローのフォームを、プロ入り3年目でスリークォーターに改造。これが彼の投手生命を絶った。

「コーチの勧めで変えたのですが、体に負担がかかっていたらしく、二軍での試合中にブチッと音がして、軟骨剥離を起こしてしまったのです」

 そう語るのは'86年、ほとんど無名だった東亜学園(西東京)を2年生エースとして甲子園に導いた川島堅(43歳)だ。

 この年こそ初戦で米子東に敗れたが、翌年は堂々ベスト4入り。34回3分の2イニング連続無四死球という抜群の制球力が光った。

 '88年、ドラフト1位で広島に入団。将来のエースとして期待されたが、冒頭のケガの影響は大きく、7年間で1勝どまり。'94年、球界を去っている。

 抜群のコントロールを誇ったあの美しいフォームを、なぜ川島は抵抗することなく捨てたのか。

 

「人が良すぎると言われるかも知れませんが、当時、私はまだ20歳。自分の意見は言えなかった」

 インタビュー中、こんな場面があった。甲子園とプロの一軍戦で計112回を投げて、一つもデッドボールを出していないことを指摘すると、本人は記者に逆質問したのである。

「死球がゼロ? 本当ですか? 厳しく攻めなくてはいけないことはわかっていましたが、当ててはいけないとも思っていました。プロには、故意に当てにいっているように見える人もいます。だから僕は、『気が弱い』と思われていたのかも知れませんね・・・・・・」

 オープン戦で、自軍のコーチに「ぶつけてこい!」と指示されたこともあった。

「根性を見せろ、と言いたかったんだと思います」

 だが、川島はそれがわかっていながら、ストライクしか投げられなかった。

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