2013.01.28

第1部プロ野球のドラフト1位たちが告白「これで終わった」自分の心が折れた瞬間

有名スポーツ選手たちの苦悩と悔恨
週刊現代 プロフィール

 フォーム改造を指示したコーチへの恨み言は言わない。そのコーチの名前さえ口にしない。

「一人っ子だったからか、子供のころからノンビリしていました」

 という心優しき男は、チームの言いなりになった末の戦力外通告にも抗議することなく、静かにユニフォームを脱ぐのであった。

 引退後すぐ、3年制の専門学校に入ると、柔道整復師の国家資格を取得。現在は小平市(東京)で整骨院の院長を務めている。

「第二の人生もダメだったとは言われたくありませんからね」

 

 アマチュア野球の指導を頼まれることもあるが、すべて断っている。

「僕はプロで活躍できなかったので、恥ずかしい気がするんです」

 オリックス時代、どれだけコーチに口を挟まれようが、イチローは振り子打法を止めなかった。川島にあの美しいフォームを押し通し、必要とあらば故意に死球を出す強引さがあれば、まったく違った未来があったのかもしれない。

 そしてもう一人、超高校級の実力を持ちながら、プロで発揮できなかった男を紹介しよう。

 海星高(長崎)のエース・酒井圭一(54歳)が一躍、注目を集めたのは'76年夏。県大会3回戦で先頭打者からの16連続を含む18三振を奪うと、甲子園でも5試合で40奪三振という快投を見せたのだ。当時流行っていたネッシーにあやかり、サッシーと名づけられた酒井はヤクルトがドラフト1位指名。だが、プロでは主に中継ぎで起用され、13年間の通算成績は6勝12敗、4セーブ。怪物は大暴れできぬまま現役を終えた。

「先発で使ってもらえなくなっても、『いいピッチャーが出てきたし、俺は中継ぎで投げられているからいいや』と、諦めていました。何でもっとアピールしなかったのか、自分が歯痒いですよ。九州人はガツガツせず諦めが早い。これは、後で気付いたことですけどね。対照的なのが、個性が強い大阪の選手。ヤクルトは東京のチームなのに、飛び交っていたのはほとんど関西弁でした(笑)」

関連記事